明治28(1895)年4月17日、日本と清国は講和条約を締結し、ここに日清戦争が終戦を迎えた。
史上初の大規模な対外戦争に勝利した日本であったが、終戦後にはもうひとつの大事業が待っていた。
日本国内に凱旋する兵士たちの検疫である。
コレラやマラリア、ペスト、赤痢などの国内感染を阻止すべく、陸軍次官であった児玉源太郎は、当時の西欧にもない大規模な検疫事業を構想した。
その検疫の陣頭指揮を執り、事業を成功に導いたのが後藤新平であった。
日本を疫病から守るための大事業を、このふたりはどのように成し遂げたのか。その一部始終を紹介する。
検疫という大仕事

画像:児玉源太郎 public domain
日清戦争の終結によって、中国大陸から20万人以上の兵士が帰国することになった。
当時の陸軍次官であった児玉源太郎は、兵士たちの検疫事業をどうするかについて頭を悩ませていた。
参謀本部『明治二十七八年日清戦史』によれば、日清戦争では軍人・軍属の戦死1132人、戦傷死285人、病死11894人にのぼり、合計死者13311人の約9割が戦闘ではなく病死であった。
中でもコレラによる死者が突出しており、もし帰還兵を通じて国内へ持ち込まれれば、全国規模の流行は避けられない状況であった。
この前例のない大規模な検疫の現場指揮官として、軍医の最高位にある石黒忠悳が推薦したのが後藤新平である。
「この検疫をやり遂げる男は後藤以外にいません。ぜひ、広島の大本営で後藤に会ってやってください」
石黒は、そういって児玉に何度も頭を下げた。
後藤はかつて、30代の若さで内務省衛生局長までのぼりつめた逸材であったが、同時に、ある事件に巻き込まれ免職となったいわくつきの男でもあった。
いわくつきの男

画像:後藤新平 public domain
安政4(1857)年、後藤新平は水沢(現在の岩手県奥州市)で生まれた。
医師として立身出世を志した後藤は、福島の医学校で医術を習得したあと、愛知県病院の三等医を経て、25歳で愛知県医学校校長兼愛知県病院院長に就任する。
その後、ドイツへの医学留学を終えて内務省衛生局長となった後藤であったが、予期せぬ出来事によってすべてを失うことになる。
旧相馬藩のお家騒動に巻き込まれたのである。
明治10(1878)年、旧相馬藩主の相馬誠胤が精神病を発症したとされ、自室に監禁された後に死亡した。
旧相馬家家臣であった錦織剛清は、これを毒殺であるとして旧相馬家を告訴。それに対して旧相馬家は錦織を誣告(虚偽告訴)罪で逆告発する。
かつて知人の紹介で錦織と面識を持っていた後藤も、この法廷闘争に巻き込まれてしまう。
神田猿楽町の路上で突然逮捕された後藤は、5ヶ月間の獄中生活を余儀なくされた。
証拠不十分で無罪となった後、後藤は自宅で静養していた。もう役人になるつもりはさらさらない。
そうして不遇をかこつ後藤のもとに、石黒からの推薦がやってきたのである。
大事業のはじまり

画像:広島大本営 public domain
明治28(1895)年3月、石黒の強い推薦によって、後藤は民間団体である中央衛生会の検疫担当委員に就任した。
広島の大本営で後藤と面会した児玉は、構想していた検疫事業計画を話した。要点をまとめると、以下のとおりである。
・23万人を超える帰還兵を対象として、約3ヶ月の間に検疫を終了する。
・広島県の似島、大阪の桜島、下関の彦島という3つの離島に検疫所を設置する。
・広大な敷地に大量の兵舎を設け、そこに収容した兵士を大型の蒸気式消毒缶で消毒する。
この前代未聞の計画の予算がどのくらいかかるのか、児玉は後藤に尋ねた。
「100万円もあればできるでしょう」と後藤は答えた。100万円は、当時の日本の歳出予算の80分の1に相当する。
「それでは150万円出そう」と児玉は答えたが、二度と役人にはならないと決めていた後藤は首を縦に振らない。
だが児玉も引かなかった。
「それなら、君のいいように新しい官制を作ろう」とまでいう児玉に、とうとう後藤は折れた。
3月14日付けで、広島の大本営に『臨時陸軍検疫部』が発足された。
総責任者となる部長には児玉が着き、後藤は中央衛生会の委員のままで実務を統括する事務官長となった。
不眠不休の工事

画像 : ランドサット衛星写真より作成。水色文字位置が似島(にのしま)検疫所。検疫所は海に面した島の東半分の敷地に置かれた。Aude CC BY-SA 3.0
こうして検疫事業が始まった。
後藤に課された任務は、6月から検疫所を開き、8月末までに検疫を終了させることであった。
検疫の対象となるのは、23万人の帰還兵である。
似島を例に挙げると、広大な敷地内には、消毒部や停留舎、病院、事務所、兵舎、倉庫、炊事場、トイレなど139棟の建設が予定されていた。
それ以外にも火葬場や汚物償却場も置かなければならない。病院と消毒工場が一緒になったような、巨大な施設が運営されようとしていた。
検疫所の建設現場は、戦場のようなありさまになった。
土木工事と並行して、小学校の運動場を工場として借り上げ、建設資材を組み立てる。梁や柱が完全に組まれる前に屋根が葺かれることすらあった。
こうした修羅場の最前線で指揮を取る後藤の様子には、鬼気迫るものがあった。
日に3時間の睡眠で現場を走り回り、民間人をなめてかかる軍人たちを怒鳴りつけ、技師たちには「人間以上の力を出せ!」と叱咤激励する。
同時に後藤は、検疫作業をスムーズに進めるための体制を整えていた。
検疫に従事する下士官を自ら教育し、帰還兵たちに配布する消毒所案内のリーフレットを作成する。
そして6月初頭、3つの離島で検疫事業が開始された。
もうひとつの戦争

画像 : 後藤新平 public domain
3つの離島のうち、似島だけで検疫する兵士たちの総数は13万7000人を数えた。ピーク時には、1日に4000人を処理することになる。
実際の作業内容はこうである。
検疫所に到着した兵士は、蒸気缶に未消毒物を積み上げると、作業着に着替えて、作業着の蒸気消毒、身体の沐浴消毒を経て検疫に向かう。
そして大型蒸気式消毒缶のなかで、兵士たちを60度以上の高温で15分間蒸気にさらせば終了、という手順であった。
だが実際に検疫を始めてみると、現場では問題が次々と発生した。
電気工事は完工しておらず、故障した消毒缶の修理に追われる。その結果、沖合には帰還兵たちを載せた輸送船が渋滞して大混乱となった。
現場責任者である後藤のもとには、軍人たちからのクレームが殺到する。
後藤と軍人たちが怒鳴り合いの大喧嘩をやらかす中、児玉は軍の不満をおさえるのに必死であった。
6月半ばまでになんとか体制を立て直した後藤であったが、その後も次々と問題が起きた。
7月になるころには検疫所内で多数のコレラ発症者が発生し、その月の末には台風が襲来した。
コレラ患者を治療し、台風で破損した建物を修繕する。その間も後藤と軍人たちの対立は止むことがなかった。
あたかも、もうひとつの戦争のような検疫事業であったが、8月の半ばを過ぎるころに、ようやく終息のめどが立った。
後藤は、広島の臨時陸軍検疫部出張所を閉鎖して8月21日に帰京したが、別人のようにやつれ、ろくに口も利けないありさまだったという。
そして検疫事業の終了を報告しに来た後藤に、児玉は箱を取り出して渡した。
「この箱は君の月桂冠だよ。持って帰って開けてみなさい」
帰宅した後藤が見たものは、箱にぎっしり詰まっている電報であった。どれもこれも、後藤への不平不満や悪態、憎悪の限りが叩きつけられている。
児玉は後藤に対する批判をひとりで引き受け、全責任を委ねていたのだ。
後藤新平と児玉源太郎のふたりは、この後、下関条約によって日本に割譲された台湾の統治行政の中核を担うことになる。
参考資料 :
『後藤新平 日本の羅針盤となった男』山岡淳一郎著 草思社
『後藤新平の台湾』 渡辺利夫著中央公論新社
『後藤新平 外交とヴィジョン』北岡伸一著 中公新書
文 / 日高陸(ひだか・りく) 校正 / 草の実堂編集部
























この記事へのコメントはありません。