幕末明治

陸奥宗光 ~「カミソリ」の異名を取った外務大臣

坂本龍馬との絆

陸奥宗光

陸奥宗光(むつむねみつ)は、第2次伊藤内閣の外務大臣を務め、幕末に日本が開国した際に締結させられていた不平等条約の改正に取り組み、そのすべての15ケ国との条約の改正を成し遂げた人物です。

その頭の回転の鋭さから「カミソリ大臣」の異名をとった陸奥ですが、順風満帆の人生ではなく、獄に繋がれる経験もしています。

また若かりし頃は坂本龍馬と行動を共にし、その暗殺後には海援隊の同志15人と共に仇を取ろうと襲撃を起こします。

かつて竜馬にいろは丸沈没事件で多くの弁償金を払わされた紀州藩を疑いをかけ、京都で不穏な動きをしていた紀州藩士の三浦休太郎(三浦安)を首謀者とみなし、滞在先の天満屋を襲撃した武勇伝も伝えらえれています。

江戸での知己

※若き日の陸奥宗光

陸奥は、天保15年(1844年)8月に紀伊国和歌山に紀州藩士・伊達宗広の六男として生まれました。

この伊達家は陸奥伊達家の分家の子孫と伝えられており、父・宗広も500石の碌を拝す、藩の勘定奉行も務めた武士でした。
しかし、程なく父・宗広が家老との政争の末、10年近くもの間 幽閉される憂き目に遭い、一家の生活は困窮を極めたと伝えられています。

そうした中で陸奥は、安政5年(1858年)に寺で雑用をする下男として江戸に入ったとされています。このときに土佐の坂本龍馬、長州の桂小五郎(後の木戸孝允)、伊藤博文らとの知己を得たことが、後の人生に大きな影響を及ぼしました。

その後、陸奥は文久3年(1863年)に勝海舟の神戸海軍操練所に学び、慶応3年(1867年)には坂本の亀山社中・海援隊に加わって行動を共にしています。

この頃に姓を伊達から陸奥に改めたと考えられています。

明治政府への出仕

陸奥は明治維新後すぐに、岩倉具視の推挙を得て外国事務局御用係を務めました。

ここで戊辰戦争に中立を表明していたアメリカと交渉して、幕府が発注したままとなっていた軍艦の引き渡しを成功させました。

このとき艦の代金の十万両の未払いあり、財政の厳しい新政府はすぐに用意できませんでした。しかし陸奥はこの窮地を大阪の商人達と交渉し、無事資金の調達を成功させました。

陸奥はそのご後、兵庫県知事(明治2年・1869年)、神奈川県令(明治4年・1871年)、地租改正局長(明治5年・1872年)などを勤めましたが、薩長の出身者が主導権を握る政府の状況に憤って職を辞しました。その後 陸奥は、明治6年(1875年)に設置された元老院議官を務めました。

投獄から復活へ

陸奥は明治10年(1877年)に西南戦争が起こると、土佐の林有造・大江卓らと政府転覆に関わっていたことが発覚し、翌年に禁錮5年の刑を受けて監獄に送られました。

陸奥は明治16年(1883年)にようやく出獄しましたが、このとき伊藤博文の勧めでヨーロッパへと留学しました。

陸奥は、翌明治17年(1884年)にロンドンで政治制度を学び、後にウィーンで国家学を学んだ後、明治19年(1886年)2月に帰国すると外務省へと出仕しました。

この更に2年後の明治21年(1888年)に駐米公使兼駐メキシコ公使を務めた陸奥は、メキシコとの間に日本初となった平等条約である、日墨修好通商条約の締結を成功させました。

不評同条約の撤廃

帰国した陸奥は、第1次山縣内閣で農商務大臣に就任、続く第1次松方内閣でも留任しましたが、明治25年(1892年)3月に辞職して政府を去り、枢密顧問官となりました。

しかし第2次伊藤内閣が成立すると外務大臣に推されこれに就任しました。そして明治27年(1894年)にイギリスと日英通商航海条約を結ぶに至り、幕末の不平等条約であった治外法権を撤廃することに成功しました。

これを皮切りに、アメリカ、ドイツ、イタリア、フランスなど次々と同様の改正を行って、自身の外務大臣在任中に、15ヶ国全てとの条約改正(治外法権の撤廃)を成立させました。

続く日清戦争後も、陸奥は明治28年(1895年)に日本に有利な条件を承諾させた下関条約を成立させる外交手腕を発揮しました。

陸奥は、この2年後の明治30年(1897年)8月、肺結核によって享年54にして激動の人生を終えました。

関連記事:
大津事件と児島惟謙 【日本の警察官によるロシア皇太子への暗殺未遂】
坂本竜馬はなぜ偉人となれたのか調べてみた【幕末の風雲児】

swm459

投稿者の記事一覧

学生時代まではモデルガン蒐集に勤しんでいた、元ガンマニアです。
社会人になって「信長の野望」に嵌まり、すっかり戦国時代好きに。
野球はヤクルトを応援し、判官贔屓?を自称しています。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く
Audible で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 高橋是清 ~日本のケインズと呼ばれた金融の天才【無一文エピソード…
  2. 【あの風刺画を描いた画家】ジョルジュ・ビゴー 「日本を愛しすぎ…
  3. 白虎隊の真実について調べてみた【美談ではない】
  4. 幕末に近代化しまくっていた佐賀藩と鍋島直正
  5. 「悪魔」と非難された美貌歌人・原阿佐緒 〜世間知らずな学者が虜に…
  6. 角田秀松のエピソード 「大義のため私怨を乗り越え、明治日本に力を…
  7. 初代総理・伊藤博文の信じられない女好きエピソード 【明治天皇にも…
  8. 【貧乏で苦しんだ文壇の美女】 樋口一葉たった一度きりの恋の行方

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

現地メディアも注目の「マレーシア幸福度調査」初の発表

2022年の今年7月、マレーシア国内における「幸福度調査」がマレーシア現地メディアを通して発表された…

ミネラル系サプリメントの上手な使い方について調べてみた

ミネラルの重要性ミネラルとは、五大栄養素と呼ばれるものの一つで、それ自体はエネルギーとはなら…

人類が根絶できたウイルス「天然痘」の歴史と被害

現在の医療技術をもってしても、ウイルスは根絶出来ていない。世界にはコロナウイルス、エボラ出血…

津軽信枚について調べてみた

戦国時代当時、本州最北端の地を収めていたのが津軽氏である。そして、関ヶ原の戦いという歴史のターニ…

【鎌倉殿の13人】得体が知れない?大野泰広が演じる足立遠元の生涯をたどる

……こうした客人たちの差配は、頼朝に命じられた足立遠元が担当していた。その場に同席していた実衣は、得…

アーカイブ

人気記事(日間)

人気記事(週間)

人気記事(月間)

人気記事(全期間)

PAGE TOP