日本の郵便制度を創設
前島密(まえじまひそか)は江戸時代末期から大正時代を生きた人物で、今でも1円切手の肖像画に使用されており、日本の郵便制度の基礎を築きました。
1円切手の肖像には昭和27年以後ずっと起用されている前島ですが、元々は農民の出自でありそこから洋学を修めたことで幕臣となり、幕府消滅後には明治新政府に請われて官僚となり、郵便制度の創設に尽力しました。
また後年には政治家に転身すると、大隈重信らと立憲改進党を立ち上げるなど多岐に渡って活動を続けた人物でもありました。
医学から洋学へ
前島は天保6年(1835年)に越後の大農家・上野助右衛門の次男として生まれました。前島の生後すぐに父・助右衛門は死去し、糸川藩の藩医を務めた母方の叔父の影響で医学の道を志したとされています。
そのため弘化4年(1847年)に江戸へ遊学して医学を学び、同時に蘭学や英語も学んだことで西洋の学問にも通ずることになりました。
そして前島に転機をもたらしたのが、安政元年(1854年)のアメリカのペリー艦隊の浦賀への来航でした。これを機に海防の必要性を痛感した前島は、安政5年(1858年)には航海術の習得のため箱館へ赴き、翌年には武田斐三郎の諸術調所に入所して砲術や数学など、当時の最新の西洋の学問を修めました。
漢字の廃止も建白
前島はその学識を買われて、慶応元年(1865年)に薩摩藩の開成所において蘭学の講師となりました。これを契機に翌慶応2年(1866年)に幕臣であった前島家の養子に迎えられて、その家督を継いだことで前島姓を名乗りました。
幕臣となった前島は、時の徳川第15代将軍・徳川慶喜に日本語の漢字を廃止する案を建白しています。
これはそれまでの自身の経歴の中において接した外国人から、日本語の漢字の難解さを指摘されたことで、今後日本を開かれた環境にするために必要と考えた為でした。
現在の視点からすると、前島ほどの俊英な人物が自国の文化に誇りを持たなかったことに、少し驚きを禁じ得ない逸話とも感じられます。
明治新政府への出仕
前島は徳川幕府が崩壊した後、明治2年(1869年)に明治新政府に請われて出仕しました。翌明治3年(1870年)に太政官に対し郵便制度の創設を行い、郵便制度の視察と鉄道建設借款契約を結ぶためにこの年にイギリスへと渡海しました。
翌年の明治4年(1871年)8月に日本へ戻った前島は、帰国後に駅逓頭に就任して、イギリスで視察した郵便制度を基に日本における近代郵便制度の基礎造りを行いました。
飛脚から郵便へ
前島が郵便制度を進める担当に起用された理由としては、明治新政府において渋沢栄一が主導していた「改正掛」という企画部署を抜きにしては語れないものでした。この部署において通信・物流などの国の基本のインフラ整備を説いていた前島の先見性が評価され、その任にあたることとなったのでした。
前島が担当した駅逓司は江戸期には「道中奉行所」と呼ばれていた役所であり、明治の初め頃には新政府の中にまだ多くの江戸時代の機構が流用されていました。
道中奉行所は、江戸期においては交通や通信を司っていましたが、通信は継飛脚とよばれた幕府専用の飛脚を使用し、民間の「定飛脚」とは共有されていない状態でした。
これを前島は郵便切手を有料とすることで、官民問わずに利用者が一定の費用を負担する仕組みとして導入しました。
小泉改革と郵便局
前島らが整備した郵便事業の基盤として、各地域の郵便局は日本で最も多く存在する役所となりました。賛否両論はありつつも、その基盤の信用の下に郵便だけでなく、貯金や保険などの金融も担う拠点として機能してきた側面がありました。
しかし日本では小泉内閣の規制緩和・構造改革の美名のもとに、これらの信用の基盤も喪失した感があります。かつての前島が唱えた漢字の廃止と同じく、その成否はもう少し後の時代でないと判断する事は難しいのかも知れませんが。
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