沖田総司とは
沖田総司は、新選組の中でも剣の腕はピカイチながら、病に侵され若くして亡くなった天才剣士だ。
ドラマなどでは甘いマスクの美少年で、豪気な剣術を身につけた心優しい人物として描かれていることが多い。
沖田総司の人生や剣の実力などについて追っていく。
沖田総司の生い立ち
沖田総司は陸奥国白河藩の藩士で、足軽頭の沖田勝次郎の長男として江戸の白河藩邸で生まれる。
生年は天保13年(1842年)と天保15年(1844年)の2つの説がある。
総司が生まれた頃の沖田家は日野にあり、親戚で近所の井上源三郎の家に良く遊びに行っていた。
井上源三郎たちは近くの天然理心流道場「試衛館」に通っていたので、その稽古を総司は幼い頃から見ていた。
総司が4歳の時に父・勝次郎が亡くなりすぐに母も亡くなる。
総司は幼かったために沖田家の家督は姉の婿が継ぐことになるが、沖田家は白川藩から離れたために生活は困窮する。
総司が9歳の時、井天然理心流を習っている井上家の大人に剣術で勝ってしまう。
そこで源三郎が「剣の才がある子だから道場の内弟子にした方が良い」と天然理心流「試衛館」の近藤周助の内弟子になる。
この時、試衛館には近藤勇・土方歳三・井上源三郎・山南敬助らがいて、彼らと共に剣術の腕を磨いていく。
めきめきと上達した総司は、12歳の時に白川藩の剣術指南役と対戦して勝つ。
16歳の時には近藤勇と共に出稽古に出向き指導し、19歳の時には試衛館の免許皆伝と塾頭になる。
総司の稽古はとても厳しく、門人たちはかなり怖がったとされる。
新選組の隊士・永倉新八によると
「土方歳三にしても北辰一刀流の目録を持っていた藤堂平助にしても沖田総司にかかると子供同然にあしらわれた。本気になったら師匠の近藤勇でさえやられただろう」
と評すほど、総司の剣の腕前は新選組の中でも抜群だった。
沖田総司の剣術
総司が得意とした技は、天然理心流の奥義「三段突き」で正式には「無明剣」と言う。
平晴眼の構えから間合いを詰めて、踏み込む足音を一つ聞いたと思ったら、すでに三度の突きが入っていたという技だ。
総司の三段突きには3つの説があったとされている。
1.頭・喉・みぞおきの急所3か所を素早く突いた。
2.突く・引く・突くという三連の動作を三段と称した。
3.頭・喉・みぞおちの3つの急所のうち隙のある所を3度突いた。
突きは「死に技」とも言われ、一度突きを出すと次の一手まで時間がかかるので、かわされて反撃されると防御ができない技だ。
総司の突きは刀の構えは水平で、刃を外に向け突きから斬る技につなげた。
この技には強い足腰と技量と気迫がなければ出来ない大技である。
新選組
文久3年(1863年)将軍・徳川家茂の上洛の警護をする浪士組に、総司は試衛館の近藤勇・土方歳三・山南敬助・永倉新八・藤堂平助・原田左之助らと共に参加する。
京に着くと浪士組の目的が攘夷だったとわかり江戸に戻る。
総司たち試衛館の志士たちと芹沢鴨らのグループ13人は、将軍警護を果たすために壬生村の八木源之丞の屋敷に集まった。この壬生浪士組は新選組の原型となる。
京都守護職の会津藩主・松平容保により、不逞浪士の取り締まりと京の市中警備を任される。
八月十八日の政変で功績を挙げて松平容保から「新選組」を拝命する。
総司は尊王や佐幕といった思想とは無縁だったが、兄とも慕う近藤のもと新選組一番隊組長となる。
同年9月、総司は土方や原田らと、乱暴狼藉な振舞いが目立つ芹沢鴨らを暗殺する。
元治元年(1864年)5月には、大坂西町奉行所与力の内山彦次郎を暗殺する。
同年6月5日の池田屋事件では総司・近藤・永倉・藤堂の4人で、20人の敵がいる池田屋に突入する。
2人を斬った総司だが、肺結核が悪化し吐血して昏倒してしまう。
これ以降、総司は病のために目立った活躍はなかったとされるが、8月の禁門の変にも出動している。
慶応元年(1865年)2月、山南敬助が新選組から脱走した際には、総司が追いかけて捕縛し切腹の時に介錯をした。
慶応3年(1867年)1月十津川郷士の中井庄五郎と土佐浪士の那須盛馬らと斬り合う(中井は逃走、那須も傷を負ったが逃走)
同年6月10日、総司は幕臣に取り立てられて大御番組扱いになるも、この後病気が悪化し大阪で診察を受けたために鳥羽・伏見の戦いには参加出来なかった。
(1868年)1月には逃れてきた新選組隊士たちと幕府の軍艦で江戸に出発し、神田和泉橋の幕府医学所に入院する。
その後、江戸城無血開城となり医学所が閉鎖となったので、浅草の称福寺で療養。そして幕府の医師・松本良順の計らいで千駄ヶ谷の植木屋・平五郎の改造した納屋で療養をする。
しかし近藤が斬首された2か月後の5月30日、近藤の死を知らされずに亡くなった。
生年がはっきりしていないので27歳または25歳だったとされる。
明るさと非情さを併せ持つ男
沖田総司は、TVドラマなどでは薄幸の美剣士として描かれることが多いが、容姿に関しての記述には「ヒラメ顔で笑うと愛嬌があり色黒で猫背」となっているものもある。
剣の実力は確かで、多数の流派の免許皆伝を持ち、新選組隊士の中で一番隊組長を任せられる三段突きの使い手だった。
性格は冗談を好み、陽気でよく笑う人物だったという。人当たりも良く近所の子供たちとよく遊んであげていたそうで、新選組と明らかに敵対していた者以外からは良い印象を持たれていたようである。
愛嬌があり近所の子供と一緒に遊ぶという一面と、子供の頃から一緒だった山南敬助の介錯を顔色一つ変えずに行うという、非情な一面も持った人物だった。
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