古来「襤褸(ボロ)を着てても心は錦」などと言いますが、見た目が悪いとその内面を知ってもらうことすらままならず、結局は近ごろ『人は見た目が9割』という書籍がヒットしました。
確かに、見た目がよいと大抵のことは底上げしてもらえる傾向がないこともありませんが、と言って外見ばかりで中身が伴わないと、すぐにメッキが剥げてしまうものです。
今回はそんな一人、幕末の京都を闊歩した新選組(しんせんぐみ)の中で美男五人衆に数えられながら、パッとしない末路をたどった馬詰柳太郎(まづめ りゅうたろう)のエピソードを紹介したいと思います。
尊皇報国の志に燃えて壬生浪士組に入隊したが……。
柳太郎は江戸時代末期の弘化元年(1844年)、馬詰新太郎(しんたろう。信十郎とも)の子として誕生しました。
馬詰氏は阿波国(現:徳島県)の戦国大名・三好(みよし)氏の末裔とも言われますが、新太郎は柳元斎と号するインテリ肌の書家で、父の雅号から一文字を冠した柳太郎もまた、あまり荒事を好まなかったそうです。
柳太郎は文久3年(1863年)、江戸への帰還を拒んで京都に残留した壬生浪士組(みぶろうしぐみ。後の新選組)に父と共に入隊しました。
「父上!壬生浪士組で身分や出自を問わず、人材を募集しているそうです。尊皇攘夷の一助となるべく、入隊を志願いたします!」
「やめておけ。江戸のあぶれ者をかき集めた浪士集団に加わるなど、ろくなことにはならんぞ……」
それでも入隊した同年5月25日、幕府へ提出した鎖港(さこう。港を封鎖して外国との交易を絶つこと。攘夷の一環)を求める上書に名前を連ね、8月18日「禁門の変(長州藩によるクーデター)」では御所の警備に出動するなど、入隊当初は隊務に積極性を見せています。
しかし、次第に新選組の内部抗争が激化し、近藤勇(こんどう いさみ)ら試衛館派が芹沢鴨(せりざわ かも)ら水戸派を次々と粛清し始めると嫌気が差したようで、次第に距離を置き始めます。
「まったく、近ごろは内輪もめばかりで、勤皇報国の志はどこに行ったというのだ!」
「だからわしは入隊を止めたのだ。しょせんは破落戸(ごろつき)どもの集まりに過ぎなかったではないか!」
もともと親子そろって武士に憧れていた訳でもなかったようで、武芸の心得はもちろんのこと、刀すら満足に差せなかった二人は若い隊士達からも侮られ、使い走りにされていたと言います。
「立派なのは見た目ばかり、口先だけは勇ましいが、尊皇の志士が聞いて呆れるわい!」
「ぐぬぬ……」
入隊当初はインテリ枠?を目指していたであろうものの、そっちは既にいっぱいだったのか、平隊士として苦手な肉体労働に従事させられた馬詰父子は、次第に立場を失っていくのでした。
心の支えだった彼女を失い…
尊皇報国の志など名ばかりで、乱暴狼藉と内輪もめに明け暮れる新選組にはほとほとうんざりしたものの、局中法度により隊を抜けることも許されず、鬱々と過ごしていた柳太郎にとって、心の支えとなっていたのは恋人の存在でした。
彼女は新選組が滞在していた壬生村の郷士・南部亀二郎(なんぶ かめじろう)の子守女で、色黒で背は低く、縮れ毛の醜女でしたが、きっと繊細な柳太郎を惹きつける豊かな感性を持っていたのでしょう。
あるいは、イケメンだったものの気が弱く、女性を口説く度胸がなかった柳太郎でも、醜女だったからこそ臆せず向き合い、内面の魅力を見出せたのかも知れません。
いずれにしても二人はねんごろとなり、互いに支え合ったことでしょうが、次第に彼女のお腹が大きくなってきました。
「あれぇ~?馬詰君も隅に置けないねぇ?」
「い、いや、拙者は……」
「解ってるよ~南部の子守女に手を出すような物好きは、馬詰君くらいのものだからねぇ~」
「やーい、このムッツリスケベ~!」
口さがない隊士たちはここぞとばかりに柳太郎をからかい、挙げ句には「♪南部の子守のお腹がふくれた 胤(たね≒父親)は誰だろ 馬詰のせがれに 聞いてみろ 聞いてみろ♪」などと唄い始める始末。
「せがれ」とは、父・新太郎の息子という意味と、柳太郎自身の「せがれ(男性器)」という意味がかけられており、まったく中高生レベルのからかいですが、柳太郎にとっては耐えがたい屈辱だったようです。
「法度が何だ!切腹が何だ!もうこんな連中と一緒にやっておれるか!」
意を決した柳太郎は父と共に新選組から脱走。捕まれば切腹ですが、何とか逃げおおせたようです。
脱走に際して子守女を連れ出したという記録はありませんが、もしかしたら子供の父親は柳太郎ではなく、彼女が他の男と浮気をした(フラれたショックで脱走した)のか、あるいは元から純粋に「仲のいい友達」くらいにしか思っていなかったのかも知れませんね。
終わりに
かくして新選組に失望し、歴史の表舞台から姿を消していった馬詰柳太郎ですが、こういうパターンは現代でも少なからず見かけます。
高い理想に燃えていても実力が伴わず、なまじ意識の高さが鼻について環境に溶け込めないまま居場所をなくしていく……きっと柳太郎も柳太郎で協調性に欠け、周囲を見下すところがあったのでしょう。
どんな人にも得手不得手はあり、なかなか能力が活かせないことも間々あるものですが、そんな時でも仲間と団結し、理解し合う姿勢が社会や組織に求められていることを、柳太郎の人生は教えてくれているのかも知れませんね。
※参考文献:
前田政記『新選組 全隊士プロフィール 四二四人 (河出文庫)』河出書房新社、2004年1月
相川司『新選組隊士録』新紀元社 、2011年12月
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