土方歳三とは
土方歳三(ひじかたとしぞう)は、幕末において新選組の「鬼の副長」として恐れられた人物である。
10人兄弟の末っ子として生まれた土方は「お大尽(おだいじん)」と呼ばれるほどの多摩の豪農の家に生まれたが、実家秘伝の「石田散薬」を行商しつつ、各地の剣術道場で試合を重ね修行を積んだという。
土方は天然理心流・試衛館の近藤勇と出会い入門し、義兄弟の契りを結んで試衛館の仲間と共に江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の警護のため、浪士組に応募し京都へ赴く。
しかし、浪士組は土方たちの思っていたものではなく、京都に残った近藤らと共に政情不安な京都の治安維持にあたる会津藩預かりの 新選組 を発足した。
近藤が局長、土方が副長となり「池田屋事件」において天下に新選組の名は知れ渡った。実質的な指揮命令は土方が行い、厳しい組織運営や剣の腕から「鬼の副長」と呼ばれたのである。
後に近藤との夢であった幕臣に取り立てられたが、そのすぐ後に大政奉還が行われ、王政復古の大号令が発せられ、江戸幕府は事実上終焉した。
慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争が勃発し、土方は新選組と共に旧幕府軍として戦う。
今回は指揮官としての土方歳三の活躍について、戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争における戦闘のひとつである「二股口の戦い」を中心に前編と後編にわたって解説する。
伝習隊で学ぶ
土方歳三と言えば剣の達人や剣豪というイメージがついているが、「二股口の戦い」では激しい銃撃戦を行っている。
剣豪として知られた土方だが、そのイメージを覆す直筆の書状が見つかっている。
それは近藤勇宛てに書いた手紙で、その中には「砲術調練」や「西洋術」という言葉があり、「新選組は大砲や洋式銃の訓練を毎日行い、かなり上達した」と書かれていた。
更に土方は、新選組を近代的な軍隊に再編成しようとした証拠も残っている。
それは、戦の時の隊列である。
先頭には大砲の大筒隊、そして洋式銃で戦う小筒隊が続いていた。
土方は銃の重要性に気付いて、新選組が時代に取り残されぬように考えていたのである。
しかし、近代化の波は土方の予想をはるかに上回るスピードで押し寄せ、鳥羽・伏見の戦いが勃発すると土方たち新選組は旧幕府軍の一員として戦った。
新選組は砲術調練の成果を発揮する機会でもあったが、新政府軍の圧倒的な銃撃に敗れて敗走した。
では、何故土方たちは負けたのだろうか?
それは土方たち新選組が使用していたのが旧式のゲベール銃だったからだと言われている。
フランスで開発され、砲術家の高島秋帆がオランダから輸入したのが始まりとされるゲベール銃は、幕末期に江戸幕府や多くの藩が相次いで購入した。
対する新政府軍が使用した銃は、ミニエー銃であった。
ミニエー銃とは、ゲベール銃と同じフランスで開発された新型の銃だが日本に輸入されたのはオランダ製であった。銃身の中に螺旋状の溝が彫られており専用の弾丸を使用する。ゲベール銃に比べて殺傷能力が高く、命中率が桁外れに上がっていた。
さらに命中すれば人間の手足が吹っ飛んでしまうほどの破壊力があり、しかもゲベール銃に比べて射的距離が約3倍もあったのである。
当時、外国から日本にミニエー銃が大量に輸入されており、あの坂本龍馬が400丁も買い付け、薩長に売ったとされている。
しかし土方ら新選組は、その新型銃を手に入れていなかったのである。
そこで土方は新政府軍に勝つため行動に出た。旧幕府軍の精鋭部隊である「伝習隊」に合流したのである。
伝習隊は幕府のフランス式の陸軍部隊だったが、鉄砲担ぎを敬遠して旗本など武士からの応募がほとんど無く、兵士には博徒・やくざ・雲助・馬丁・火消などの江戸の無頼の徒が集まっていた。
そんな中に新選組の副長である土方は参加し、フランス人の軍事顧問から最新式の訓練を受け、近代戦の指揮官となるために必要なことを学んだのである。
そして土方は伝習隊の指揮官として旧幕府軍と合流して戊辰戦争に参戦した。その後北上し、榎本武揚らと共に蝦夷地に上陸して箱館の五稜郭を占領するのである。
最新技術から見た土方の胸壁
「二股口の戦い」とは、土方が指揮官としてたった130人の兵で新政府軍600の兵と戦った戦いである。
その場所を最新のデジタル技術で調査してみると、古戦場となった場所には土方たちが造った胸壁(きょうへき)という溝のようなものが幾つも残っていた。
上空からレーザーを使って調査した結果、土方らが造った胸壁の数は山の尾根沿いに13箇所あったという。
通常、胸壁はその戦いだけの臨時の構造物なのだが、山の中にあったため150もたった今でもその原型は崩れてはいなかった。
更にその配置にも土方の恐ろしい狙いがあった。それは「十字砲火」を中心とした防御の発想である。
十字砲火とは複数の銃撃を組み合わせた戦術である。
例えば、敵の正面に攻撃を仕掛けたとすると敵は当然防御をする。
その時、すかさず兵士が移動して側面から発砲すれば敵は大混乱する。これが十字砲火の基本である。
土方はこの十字砲火を最大限活かす工夫を凝らしていた。
それは胸壁の角度である。細かく角度をつけることで広範囲を狙うことが出来た。
それを組み合わせると至る所から十字砲火が可能となる。土方の狙いは新政府軍が進む道の完全封鎖であった。
土方が造った胸壁は稲妻のようなジグザグな形をしており、あらゆる所から攻めてくる新政府軍に対応出来るように造っていたのである。
側面からの攻撃にもすぐに対応可能で、少人数の兵で広い範囲をカバーすることが出来る工夫であった。
しかも土方は天然の山の地形や道との兼ね合いも計算し、たった2日で自然の要塞を造り上げて新政府軍の進軍を待っていたのである。
後編では土方歳三が5倍の敵を退けた「二股口の戦い」と、土方の最後について解説する。
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