大津事件 「ロシア皇太子襲撃事件」
大津事件(おおつじけん)は当時訪日中であったロシア帝国の皇太子ニコライに対し、あろうことか警備の警察官が突如として装備のサーベルで斬りかかって負傷をさせたという襲撃事件です。
明治維新からまだ20年余の明治24年(1891年)に起きたこの事件は、一つ間違えば大国ロシアとの戦争にすら発展しかねない一大事件でした。
このため政府としては政治的見地から干渉を行い、犯人を死刑にしようとしたと言われています。
しかし当時大審院院長の職にあった児島惟謙は法治国家である以上、法の遵守は必須とした考えの下、犯人に対して無期徒刑(無期懲役)の判決を下す英断を行いました。
大津市内での凶行
ロシアの皇太子ニコライ(後のニコライ2世)は、当時起工されていたシベリヤ鉄道の式典に参加する目的で、ウラジオストクを目指す途上に日本を訪問していました。
ロシア海軍の御召艦で来日したニコライは事件当日の明治24年(1891年)5月11日は、京都から滋賀を訪れたところでした。
日本はこの訪日を国を挙げて歓迎し、その後は横浜・東京でのお迎えの準備も進められていました。
しかし、この日大津市内を人力車で移動中だったニコライに対し、警備にあたっていた滋賀県警の津田三蔵巡査が、突如として装備のサーベルで斬りつける凶行に及んだのです。
明治天皇の対応
ニコライは頭部に負傷を負ったものの命に別状はなく、犯人の津田は人力車の車夫たちの反撃もあってその場で取り抑えられました。
取り押さえた人力車の車夫は、向畑治三郎と北賀市市太郎でした。
この二人はその後、ロシア軍艦に招待されて大歓迎を受け、ニコライから直接勲章を授かり現代価格で1000万円ほどの報奨金と終身年金も与えられることとなり、国内でも英雄として一躍脚光を浴びることとなったのです。
ニコライの案内に同行していた有栖川宮威仁親王は、ことの次第を東京の明治天皇へと電報で知らせ、同時にロシアへの配慮から、明治天皇自らの京への行幸を依頼しました。
これを受けて翌5月12日の夜には明治天皇が京都へ入り、翌13日にニコライの侍医の許諾を得て宿泊先のホテルに赴いてニコライを見舞いました。
ニコライは神戸港にあったロシアの軍艦に戻り、ロシア本国からの指示でウラジオストクへ向かい日本を離れましたが、この見送りも明治天皇自らがあたりました。
政府の強硬な干渉
未だ小国に過ぎなかった日本が大国ロシアの皇太子相手に引き起こした不祥事に対し、明治政府はひたすら謝辞と反省の態度を表すしかないと考えました。
そのため政府は当事案の担当をする裁判官に対し、大逆罪を適用した死刑判決を行うよう半ば公然と干渉を行います。
この干渉は時の松方首相、西郷内相、山田法相らが働きかけ、伊藤博文に至っては死刑を反対する向きには厳戒令の発布も辞さないとすら明言しました。
児島惟謙の決断
これらの政府からの圧力に対し、大審院院長にあった児島惟謙(こじまこれかた)は「法治国家としての法の遵守」という観点から、大逆罪を外国の皇族に適用することはできないという自明の法的解釈に則って、公然と政府の干渉を跳ね除けました。
法治国家としての態度を貫くか、ロシアを恐れるあまり都合主義に堕するかという究極の問題に対し、前者を選択したのでした。
こうして事件発生から16日後の5月27日に「一般人に対する謀殺未遂罪」の適用を行って、津田に対する無期徒刑(無期懲役)の判決が言い渡されたのでした。
領事裁判権の撤廃
大津事件で「法治国家の原則」を貫いた結果、日本が諸外国に認めさせられていた領事裁判権が撤廃されていくことに繋がります。
領事裁判権とは、「日本国内で外国人が犯罪を犯しても、その外国人の母国の法律で裁く」という一種の不平等な取り決めでした。つまりは、その相手国の統治形態が信頼に値しないと判断されているということに他なりませんでした。
大津事件において政府の強硬な姿勢に推されることなく、法治国家として正当な判決を下したことが国際的に日本の司法制度の信用を高めたのでした。
そうして後年、日本が結ばされていた領事裁判権は陸奥宗光の時代に完全に撤廃されることになるのです。
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