幕末明治

203高地とは? 「ゴールデンカムイの杉元も戦った日露戦争の激戦地」

不死身の杉元

ゴールデンカムイ」は、野田サトル氏による人気漫画で「和風闇鍋ウェスタン」を標榜している冒険譚です。

この物語は日露戦争後の北海道や樺太を舞台にしたもので元軍人の杉元佐一と、アイヌの少女アシリパという二人が主人公の物語です。

二人がアイヌの埋蔵金と、それに纏わるアシリパの父の謎を追って繰り広げる様々な出来事を描いた作品ですが、この主人公・杉元は日露戦争に出征し、その壮絶な戦場をも生き延びてきたことから「不死身の杉元」の異名を取った人物です。

今回は、この杉元も参加した日露戦争の203高地の激戦について解説します。

日露戦争の開戦

203高地とは?

※開戦時の戦力比較(露・日:歩兵66万対13万、騎兵13万対1万、砲撃支援部隊16万対1万5千、工兵と後方支援部隊4万4千対1万5千、予備部隊400万対46万)

日露戦争は明治37年(1904年)2月6日に始まりました。

開戦後すぐに日本海軍はロシア旅順艦隊の母港である旅順へと連合艦隊を差し向けました。なぜなら、旅順に存在していたロシア艦隊に日本海の制海権を握られる事態に陥れば、大陸に軍や物資を送ることが出来なくなり、日本の敗北を意味することになるためでした。

このため日本海軍は日本海の輸送路を死守すべく、ロシア旅順艦隊の壊滅を企図していました。しかしロシア艦隊は旅順港に籠り出てきません。

このため、日本海軍は海上での待機を余儀なくされました。

バルチック艦隊の脅威

203高地とは?

そんな折、ロシアはヨーロッパにあったバルチック艦隊を日本へと派遣することを決定します。

この知らせを受けた日本海軍は、旅順艦隊とバルチック艦隊の両艦隊と戦うことになれば、日本に勝ち目はないと考えました。
そしてその事態を防ぐために、バルチック艦隊が到着する前に旅順艦隊を壊滅させる方法として、陸からの旅順要塞の攻略を求めました。

これはロシアの旅順要塞を陸から攻略して、陸から旅順港のロシア艦隊を砲撃して無力化することを狙うものでした。
これを受けて、陸軍は旅順要塞に対する総攻撃を決定、乃木希典(のぎまれすけ)の第三軍を旅順に派遣しました。

そんな状況下、総攻撃の2週間前に陸軍参謀本部に新しい情報がもたらされました。その内容は旅順要塞は、日本側の予想より、はるかに強化された強固な要塞となっているというものでした。

乃木の軍はその情報を知りつつも、海軍の要望通り日本の勝利のため攻撃をする道しかありませんでした。

旅順要塞攻撃の失敗

203高地とは?

※乃木希典, 1849 – 1912

明治37年(1904年)8月19日、旅順要塞への第一回目の総攻撃が開始されました。

乃木は先ず集中砲撃でロシアの守りを崩した上で、そこから歩兵の突撃を行う作戦て旅順要塞の攻略を目指しました。
しかし、情報通り頑丈ないコンクリートで強化されていた敵陣は砲撃に耐え、突撃した歩兵に夥しい犠牲もたらしました。
こうして8月24日に一旦作戦は中止されました。

乃木は作戦そのものを見直す必要に迫られましたが、そこで出された案が、ロシア旅順艦隊の壊滅を最終目的とするのならば、要塞よりは守りの薄い西北の丘(203高地)を占領し、そこに大砲の観測所を設置し、旅順要塞を跨いで砲撃を行ってはどうかという案が出されました。

ロシア旅順艦隊の壊滅

こうして明治37年(1904年)9月19日、陸軍による203高地への攻撃が開始されました。

今回も先に砲撃を行い、後に歩兵が高地の丘を駆け上がってその確保を目指し突撃しましたが、身を隠す場所が何もないことと、高低差から高い位置のロシア側が優位であったことから、夥しい犠牲を出すことになり、その死傷者数は4日間で約2500人にも及びました。

旅順要塞よりも攻略が容易ではないかとして実施された203高地攻撃でしたが、奪取できない結果に終わりました。

しかし、光明もありました。今回の攻撃の途上で占拠した南山玻山から旅順港が目視できたのです。

これを受けて、すぐに南山玻山山頂から旅順港内のロシア艦隊の位置を測定、28サンチ砲を用いた旅順要塞を跨いだ砲撃が行われました。
砲弾は見事に要塞の頭上を超えて旅順艦隊に降り注ぎ、やがて敵艦隊は死角へと移動しました。そしてこの後、捕虜のロシア兵から、旅順艦隊の艦船からは砲や弾薬が陸上へと転用され、軍艦としての能力は失われたという情報が得られました。

この海軍が望んだ結果を、乃木はすぐに大本営へと報告しました。

しかしこの3日後、10月16日にバルチック艦隊が出港したとの知らせが入ると、現実味を帯びてきたその脅威に、海軍は乃木の報告に疑いを抱き、更なる攻撃の要求を始めました。

乃木希典 の塹壕戦

こうして海軍は再びの203高地の攻略と、その後のロシア艦隊への砲撃で壊滅を確実にするよう要求しました。

これに対し乃木は、すでにロシア艦隊壊滅は図れたとして、膨大な犠牲を伴う203高地攻撃の要求を黙殺しました。
乃木の考えは、莫大な犠牲を生じる203高地の攻撃ではなく、地道に塹壕を掘って進むことで要塞を攻略しようとするものでした。

明治37年(1904)年10月26日、第二回目の塞総攻撃が開始されました。乃木の作戦通り塹壕を掘り進み、敵要塞地下のコンクリート壁を爆破して、要塞内の通路へと兵が突入していきました。

しかしここでも膨大な死傷者を出し、10月31日には攻撃を中止せざるを得ませんでした。海軍の203高地攻略の要求を退けた上でのこの作戦失敗は、乃木への203高地攻撃の圧力を増加させる結果となりました。

大本営は、バルチック艦隊は翌年1月に到着すると予想し、11月8日に行われた会議で海軍・陸軍参謀総長も再度の203高地攻略を乃木に迫りました。
しかし乃木は旅順の内通者からロシアの要塞守備兵も消耗し、あと少しで陥落させることが出来ると考え、203高地攻撃には従いませんでした。

203高地の陥落

乃木希典

※乃木のロシア兵に対する寛大な処置から、敵国ロシアの「ニーヴァ」誌ですら、乃木を英雄的に描いた挿絵を掲載した

しかし11月14日、乃木の態度に業を煮やした陸海軍首脳は、明治天皇との御前会議を開いて203高地攻略を天皇の裁可を仰いで決定させました。

ここに至っては乃木も逆らえず、止む無く攻撃を決意しました。

2か月前の攻撃以降、ロシア軍は突貫工事ながら203高地の守りも強固なものにしていると予想され、前回以上の犠牲が発生することを、乃木は覚悟したと思われます。
そして11月27日、203高地への総攻撃が再び敢行されました。12月5日まで9日間に及んだ日本軍の突撃によってついにロシア軍は敗れて203高地は陥落しました。

同日午後には、攻略の成った203高地に砲撃用の観測所が設置され、旅順港のロシア艦隊に向けた砲撃が行われました。
陸軍は膨大な兵たちの屍の上に、敵艦隊の殲滅を成し遂げたのです。

この陸軍の犠牲もあり、翌年の明治38年(1905)年5月27日、連合艦隊は日本海海戦でバルチック艦隊に完全勝利を治めました。

この大勝利は、日露戦争における日本の勝利を揺るぎないものとしましたが、決して海軍のみで成し得た勝利ではありませんでした。

 

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