三輪田米山とは
三輪田米山(みわだべいざん)とは、江戸時代後期から明治にかけて活躍した書家であるが、彼には特筆すべき面白い習性があった。
伊予国久米郡(現在の愛媛県松山市)の日尾八幡神社、神官の家の長男として生まれた米山は、神官として働く傍ら約3万にも及ぶ書を残した。
米山は「酒が入らぬと、良い書はかけぬ」と言っていつも二~三升の酒を浴びるように飲み、倒れる寸前まで飲んでからおもむろに筆を取るのが常であったという。
普通であれば、そんな状態で優れた書を書くことなどできないと思うだろうが、米山はそんな酩酊状態で素晴らしい書を数多く残した。
しかも書家として明治天皇の侍侯を務め、書の訓練・指導にあたったという稀な人物なのである。
三輪田米山は「僧・明月」、「僧・懶翁」と共に「伊予三筆」に並び称された伊予国(愛媛県)を代表する書家であった。
今回は、酒を飲まないと筆を手に取らなかった書家・三輪田米山の生涯について解説する。
出自と足利三代木像梟首事件
三輪田米山は文政4年(1821年)伊予国久米郡(現在の愛媛県松山市)の日尾八幡神社の神官である三輪田清敏の長男として生まれる。
本名は「常貞」または「清門」、幼名は「秀雄」、字は「子謙」、号は「米山」で別号を「得正軒主人」、ここでは一般的に知られる「米山」と記させていただく。
弟が二人、一人は東京に行き、もう一人の弟は足利三代木像梟首事件の首謀者とされる国学者・三輪田元綱である。
足利三代木像梟首事件とは、文久3年(1863年)2月22日に京都の等持院霊光殿に安置されていた室町幕府初代将軍・足利尊氏、2代・義詮、3代・義満の木像の首と位牌が持ち出せれ「正当な皇統たる南朝に対する逆賊」とする罪状が掲げられて京都の三条河原に晒された事件で、徳川倒幕の意を表現した幕末の尊王攘夷運動の一つである。
犯人は数十人がいるが、米山の弟・元綱はその首謀者の一人であった。
弟たちは幕末の激動の時代の流れの中で京都や江戸に出たが、米山は長男として神官を継ぐ身であったためにずっと伊予国にいた。
神官宅は鷹子村にあり、神社は南久米村にあったため、米山の出身地は鷹子村説と南久米村説の二つあると言われているのはそのせいである。
嘉永元年(1848年)父が死去し、米山が神官を継ぐことになった。
明治4年(1871年)旧松山県より日尾八幡神社祀官に任命され、地元の子弟の教育や神官の育成など地域の振興に大きく貢献したという。
独学の書
米山は国学・漢学・和歌を国学者の大国隆正に学び、そして書は日下陶渓(くさかとうけい )を手本に独学で学び、王羲之・趙孟頫・鐘繇・細井広沢・僧の明月らの書法を研究して身に付け、後に独特で自由な書を書くようになったという。
王羲之(おうぎし)とは、中国東晋時代の書家で、書において新しい表現方法を生み出したことから「書聖」と呼ばれた人物で、王羲之の書はたくさんの書家に影響を与えた。
趙孟頫(ちょうもうふ)とは、中国の南宋から元時代の書家で、王羲之の影響を受けその書風を学び、その完成度は他の追随を許さなかったという。
鐘繇(しょうよう)とは、三国時代の魏の書家で、秦や漢以来の第一人者とされた人物。
細井広沢は、江戸時代初期の書家で多くの書に関する著述を残し、書道に多大な貢献をしている人物。
米山は具体的には、楷書を王羲之の「黄庭経」や「楽毅論」、鐘繇の「宣示表」や「薦季直表」を手本にした。
草書は、王羲之の「十七帖」や「淳化閣帖」を手本にしていた。
かなは、「高野切第二種」や「秋萩帖」を手本として書に打ち込んだ。
これら高名な中国の書家たちの書の本を借り受け、必死に学んだという。
このように古典の書を学んだが、年齢を重ねるうちに独自の書風を作り上げていったのである。
米山日記
米山は、父が亡くなり神官を継いだ嘉永元年(1848年)の28歳から、明治34年(1901年)の81歳までの53年間を詳細に記述した日記のようなものを書いている。
その内容は、新暦年月日から旧暦月日・干支・曜日とその日の天気、公文書の控え、自身の行動、特記見聞、交友、祝詞原稿、占い、歌、新聞記事、世相、祭式など多岐に渡り、その数は約300冊にも及んだとされている。
その中には、米山の酒での失敗談(例:飲み過ぎて妹に代書させた)なども掲載されており、現在愛媛大学にはそのうちの207冊が所蔵されていた。
当時の松山の様子を知る貴重な記録・資料となっている。
酔いどれの書
酒が好きだった米山は、神官の仕事を終えると二升~三升とまさに浴びるように酒を飲んだ。
酩酊状態の米山がおもむろに手を取ったのは筆だった。
まさに倒れる寸前、意識がもうろうとする中で米山は勢いに任せて一気に書を書き上げる。
「うまく書いてやろう」という雑念が頭から消え、例え誤字があろうと脱字があろうとそんな瑣末なことはまったく気にしない。
ただ無心に書き、そうして生まれた米山の書は、豪放磊落にして気宇壮大、雄潬にして奔放自在、天衣無縫で唯一無二の輝きを放ち、見る者を圧倒したのである。
何物にも捉われないその書体は、近代の書の先駆者として今もなお独自の輝きを放っている。
酒を浴びるほど飲んでは無心で書く。
それを繰り返し生涯に2万点とも3万点ともいわれる書を残した。
また米山の書の噂が知られ、彼は明治天皇の侍候を務め、天皇の書の訓練・指導にあたったという。
米山の碑文は愛媛県内の神社に100件以上が現存している。
日尾八幡神社を始め、松山市内の神社の注連石やのぼりなど各所に残されている。
明治41年(1908年)88歳で亡くなっているが、愛媛大学には米山の書の名作が幾つも所蔵されており、定期的に一般公開もされている。
おわりに
生涯松山で暮らした三輪田米山。
そのため書家として中央での名声はほとんどなかったが、松山では有名な書家として知られている。
昭和になってから実業家の山本發次郎が米山の書を高く評価し、その菟集に情熱を傾けた。
これにより米山の名が全国的に知られるようになった。
一合や二合ではなく、升の単位で酒を飲み、まさに命がけで書いたその書は、酔うほどに文字が横広がりになり、篇(へん)と旁(つくり)の間に大きな透き間が生じたという。
だが、この透き間になぜか人の心と爽やかな風が吹いていると称され、人々は米山の書に惹きつけられたという。
参考文献 : 米山日記
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