日本に一夫一婦制が導入されたのは明治時代以降。それ以前は夫が妻(正妻、正室)のほかに妾(側室、愛妾など)を作ることが公然と認められていました。
こと幕末・維新期には多くの志士たちが全国各地へ飛び回った関係から、現地妻を作る事例に事欠きません。
今回は維新立役者の一人・勝海舟(かつ かいしゅう)に嫁いだ勝民子(たみこ)のエピソードを紹介。
古来「英雄、色を好む」などと言われるものの、それは浮気者の言い訳に過ぎません。妻の立場にしてみれば、たまったものではないのですが……。
貧しくも幸せな新婚時代
勝民子は文政4年(1821年)、薪炭商と質屋を営む砥目家の娘として産まれました。
諸事情によって深川芸者となったとも言われ、25歳となった天保15年(1844年)、国事に奔走していた勝海舟と結婚します。
当時、勝海舟は23歳。姐さん女房の民子は夫をよく支え、屋根板をはがして燃やさねばならないほどの極貧生活を耐え抜きました。
「悪いなぁ、お民。こんな暮らしばかりで」
「何さいいじゃないの。星を見ながら眠れるなんて、なかなか贅沢なモンじゃないか……」
とまぁそんな前向きな健気さを見せられて、感謝しない夫は人でなしです。
お陰様で夫婦仲も睦まじく、二女二男(夢、孝子、小鹿、四郎)を授かりました。
勝海舟もかねがね「俺にはもったいないくらい、出来た女房なんだ」と惚気けていたのですが……。
調子に乗った勝海舟、妾5人に子供が9人
その後、勝海舟が幕臣に取り立てられて極貧生活を脱すると、いささか様子が変わってきます。
長崎の海軍伝習所へ赴任すると、勝海舟は33歳で一人目の妾・お久(14歳。梶玖磨、クマ)を迎えました。
若い身空で早くも未亡人であった彼女を養護する目的もあったのでしょうが、下心がなかろうはずはありません。
これを皮切りに、一人持ったらもう一人……と、勝海舟は確認できる限りで5人の妾を迎えたのでした。
香川とよ(おとよ)
小西かね(おかね)
増田糸(おいと)
森田米子(およね)
ここに正妻の民子とお久が加わり、妻だけで計6人。
更にはそれぞれ産んだ子供(民子4人、妾たち9人で計13人)がいるので、20人の大所帯。もはやちょっとした集落の様相を呈しています。
まるで大奥!妾たちをまとめ上げた「お民さま」
普通、これだけの人数が集まれば(※)大抵トラブルが絶えないもの。
(※)勝海舟は妻や妾たちをみんな同居させたのです。互いの存在さえ嫌でしょうに、それが毎日顔を付き合わせるなんて、想像するだけでもうんざりですね。
ましてや夫の愛情をめぐる多角関係とあれば一触即発……しかし、民子はそれを完全に抑え込みました。
「よろしいか。私たちはみな、夫の天下奉公をお支えするために集まりました。私を含め、みな思うところはありましょうが、夫を支えるためにいかなる諍いごとも許しませぬ」
「「「はい!」」」
民子は勝海舟が妾といちゃついていても嫉妬する素振りを見せず、また他の妾たちにもそれを徹底します。
妻や他の妾たちが嫉妬していると感じては、夫が逢瀬を楽しめないからです。
また、民子は妾たちの産んだ子供たちについても我が子と同様に可愛がり、教育しました。
何故ならどの子もみんな勝海舟の子供であり、その志を次世代に受け継ぐ人材に育って欲しいからです。
夫と子供を愛し、妾たちも受け入れた民子。その度量は妾たちにも尊敬され、いつしか「お民さま」と毎朝の挨拶を欠かさなくなったと言います。
まるで勝海舟のために大奥を作り上げたようなものでした。
遺言に込められた永年の怨み
さて、そんな尋常ならざる民子の献身に対して、勝海舟のコメントがこちら。
「……おれの手をつけた女どもが一緒にいて、それでおれの家に波風一つ起きないのは、あれの偉いところだ」
口では一応「偉い」と言ってはいるものの、何とも上から目線でイラッと来てしまいますね。
もちろん民子も民子で、知人に対しては
「貧乏(夫婦とわが子たちだけ)だった昔の方が幸せだった」
としばしば嘆いていたとか。そりゃそうでしょう。
天下奉公に活躍して欲しい一心で夫の浮気をどこまでも許し、あろう事か妾との同居まで認めるなんて、神経の擦り切れない方が不思議です。
やがて明治32年(1899年)に勝海舟が脳溢血で他界。その6年後、明治38年(1905年)に民子を世を去ります。
「……頼むから、勝の傍には埋めてくださるな……」
もう嫌だ、生きている間は我慢したけど、死んだ後まであんな男の近くにいたくない。
最後の最後まで耐え忍び続けた民子の遺言に、独り抱え込んだ永年の怨みが込められていました。
終わりに
埋めるなら長男・勝小鹿(ころく)の傍がいい……しかし民子の希望は聞き入れられなかったのです。
小鹿の婿養子・勝精(くわし。徳川慶喜の子)の意向により、あろう事か勝海舟の隣に埋葬されてしまいました。
「生きている間は、二人きりの時間を楽しめなかっただろうから……」
法号は大慈院殿妙海日深大姉。墓は東京大田区・洗足池公園の中にあり、今も夫婦並んで眠っています。
さぞ不本意だったでしょうが、せめてあちら側では水入らずの幸せを取り戻して欲しいですね。
※参考文献:
- 石井孝『人物叢書 勝海舟』吉川弘文館、1986年11月
- 船戸安之『勝海舟―物語と史蹟をたずねて』成美堂出版、1973年4月
この記事へのコメントはありません。