大政奉還の関係者
後藤象二郎(ごとうしょうじろう・1838年4月13日-1897年8月4日)は、幕末から明治にかけての土佐藩士であり政治家です。
板垣退助や佐々木高行と共に土佐三伯の1人に数えられています。
象二郎がその名を広く知られることになったのは、同じ土佐出身の坂本龍馬から「大政奉還」の策を授かり、最終的には時の将軍・徳川慶喜にその策を建白し、それが受け入れられた出来事からだと思われます。
この策のそもそもの趣旨は、260年余の永きに及んだ徳川幕府が自らその政権を朝廷へ返上することで、平和的に新しい政権へと移行することを目指したものと言えると思います。
但しその策を立案した龍馬や、その策を受け入れ前土佐藩主・山内容堂に了承させた象二郎、更にそれを土佐藩の案として受け入れた慶喜まで、それぞれの思惑が複雑に絡み合ったものと考えられます。
後藤象二郎 の生い立ち
象二郎は、土佐藩士・後藤正晴の長男として高知城下に生を受けました。
土佐藩は、領主である山内家が徳川家康から土佐一国を拝領した際、引き連れてきた家臣を上士、それ以外の長宗我部氏以来の国人武士や、武士以外の身分から新たに取り立てられて武士となった者を郷士と呼んで、厳格な身分を定めてていました。
象二郎の家は上士ではありつつも、父・正晴の碌は150石程度だったようで、決して上士の中で高い格式の家ではなかったと言えます。
そんな象二郎が藩の役職へ就くことができたのは、叔父であり容堂に重用された吉田東洋の存在が大きかったといえます。
象二郎は安政5年(1858年)、東洋の推挙によって二十歳そこそこの若さで幡多郡奉行となりました。これを皮切りに万延元年(1860年)に普請奉行、文久元年(1861年)には御近習目付に任じられています。
大政奉還を契機として武士の世は終わりを告げる事になるのですが、象二郎の生い立ちは叔父・東洋や前藩主・容堂という旧来からの武士の思想に色濃く支えられたものでもあったと思われます。
象二郎と龍馬との邂逅
象二郎は、万延2年(1862年)に東洋が土佐勤皇党の刺客の刃に倒れると、反東洋派の勢力によって任を解かれ、一旦藩政の場から姿を消すことになりました。
そんな象二郎が再び藩の任に就くのは、2年後の後元治元年(1864年)、容堂らの公武合体派が藩内での権勢を握ったことからでした。象二郎は容堂によって大監察や参政に任じられ、同派の急先鋒として土佐勤皇党の弾圧などに精力的に取り組みました。
象二郎らは、翌年に土勤皇党の党首・武市瑞山(武市半平太)を処刑するに至り、長州を中心とした尊王攘夷勢力に対して未だ確実に旧体制を守る側にありました。
そんな中、象二郎は慶応2年(1866年)に藩命によって薩摩や長崎を訪れ、さらには清の上海を視察しました。
長崎を拠点として活動していた龍馬と象二郎が会見を持ったのもこの頃でした。
しかしあくまで象二郎は、土佐藩のために海外の貿易に龍馬の持つノウハウを欲し、龍馬もまた経済的に窮乏していた亀山社中を立て直すことを重視した結果、両者の思惑が一致して協力関係になったものと考えらえます。
大政奉還のそれぞれの思惑
慶応3年(1867年)6月、土佐藩の船で京に向かった龍馬は、その船中で象二郎に対して「船中八策」を示したとされています。
その中の策のひとつが「大政奉還」であり、これを妙案と納得した象二郎は今度はそれを自らの後ろ盾である容堂に提言しました。もちろん容堂の賛同を得やすいように、郷士出身の龍馬の策であることは伏せて、自らの考えとして説明したと考えられます。
このこと自体は、龍馬からすればかつての仲間・土佐勤皇党の郷士たちを処刑した最高権力者を自らの考えに従わせることになり、政治的に婉曲な勝利を納めると同時に、平和的な政権交代ができる最善の方法と考えての事だとと思います。
しかし、象二郎や容堂がこの策を承知した最大の理由は、大恩のある徳川の危機を忠臣たる土佐藩が救うという点にあったと思われます。
さらにその先の慶喜にも、その案に乗って先に政権を返上してしまえば薩長が推進している武力討幕を防ぐことができるという計算があり、そこにあったのは武士の世の終焉という政治変革などは当然望んでいなかったものと思われます。
明治以後の象二郎
ともあれ、大政奉還は慶応3年(1867年)10月14日に慶喜によって実施され、明治新政府が樹立されることとなりました。
しかし、江戸こそ無血開城されたものの、薩長の武力討幕路線は変更されず、戊辰戦争という内戦が行われました。
また徳川も新政府に参画は許されず、その意味では慶喜や容堂の希望は成就しなかったと言えます。
象二郎はその後、新政府へも参与・参議などに推されて就任しましたが、明治6年(1873年)の征韓論争によって西郷隆盛らと同じく下野することになりました。
しかし西南戦争に散った西郷らと異なり、後の内閣で逓信大臣や農商務大臣などを歴任して表舞台へと復帰しました。しかし明治27年(1894年)5月には収賄事件の責任をとり大臣を辞すことになりました。
そしてそれから3年後の明治30年(1897年)8月4日に60歳で息を引き取りました。
一貫性のない政治信条や汚職など、その評価に賛否両論はあるにせよ、政治家として機を見るに敏な点は間違いなく備えていた人物だと言えるのではないでしょうか。
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