江戸時代

徳川家康はなぜ駿府城で隠居したのか 調べてみた

徳川家康はなぜ駿府城で隠居したのか
※徳川家康

海道一の弓取り」の異名を持ち、関が原の合戦に勝利して江戸幕府を開いた男。
それが、征夷大将軍・徳川家康である。

そのことは様々な物語となって日本中で語られている。しかし、家康は慶長10年(1605年)4月16日、将軍職を辞するとともに朝廷に嫡男・秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示した。

66歳のことであり、この時代の平均寿命からすると決して早いとは言えないが、それでもわずか2年で将軍職を譲り、自身は駿府城で74歳の長寿を全うした。

だったら、なぜ隠居後は生まれ故郷の三河国ではなく、駿府を選んだのだろうか?

駿府城

駿府城
※巽櫓(復元)

14世紀にこの地を治めていた今川氏によって、今川館が築かれ今川領国支配の中心地となっていた。

徳川の天下となってからは、駿府城は近世城郭として築城し直され、この時に初めて天守が築造されたという。家康が隠居をして駿河に入るにあたり、駿府城は天下普請(てんかぶしん)によって大修築され、ほぼ現在の形である3重の堀を持つ輪郭式平城が成立した。天守閣は、石垣天端で約55m×48mという城郭史上最大のものであった。天下普請(てんかぶしん)とは、江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事のことである。その費用も大名持ちであり、そこには大名の財力を減らす狙いもあった。

1607年(慶長12年)に、完成直後の天守や本丸御殿などが城内からの失火により焼失する。その後直ちに再建されたが、1610年(慶長15年)再建時の天守曲輪は、7階の天守が中央に建つ大型天守台の外周を隅櫓・多聞櫓などが囲む特異な構造となった。

大阪城にはまだ豊臣秀頼がいた時代とはいえ、あまりに大規模な城である。

駿府城
※城郭図

駿府城の西方には一級河川である「安倍川」が流れているが、現在の姿は江戸時代初頭、 徳川家康によって天下普請として大規模な治水工事が行なわれた結果である。それ以前は、別の流れで複数の川筋となって駿河湾に注いでいた。

太原雪斎

駿府城
※天文14年(1545年)、雪斎が開寺した臨済寺

太原雪斎(だいげんせっさい)は、今川氏の武将ながら、臨済宗の僧侶でもあった。
今川義元の時代には義元を政治・軍事の両面で全面的に補佐した。義元も雪斎を厚く信任して手厚い庇護を与えたという。

NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」でも佐野史郎が演じ、義元に対し井伊家の支配にも知恵を授けるという重要な役柄である。当時の今川は尾張の織田信秀(信長の父)と戦っており、雪斎も天文16年(1547年)、天文17年(1548年)と今川軍を率いて織田軍を破る戦いを見せていた。さらには織田との交渉により、織田家に奪われていた人質の松平竹千代(のちの徳川家康)を今川氏のもとへと取り戻している。

この出会いが、家康の人生を変えたといってもいいだろう。家康8歳の頃であった。

自然と雪斎が近くにいる環境の下、幼い家康は色々なことを学んだ。人質時代の徳川家康の学問・軍学の師とする説も存在しているが、雪斎の駿府不在時期と重なり、異論・反論も多く、実際のところは駿府に立ち寄った際に交流があったと思われる。つまり、師弟関係ではなかったからこそ、家康は雪斎の言葉に素直に耳を貸せたのだ。

雪斎は有徳の僧侶であれば形式などくだらないものにこだわらないで尊敬する事、禅師・上人などの号に奢って堕落する高僧を非難するなど、合理主義者としての素養を伺わせる人物であり、まさに天下人の手本となるには十分な人物だったことが分かる。

家康にとって、その思い出が残る場所こそ駿府だったのだ。

二元政治

駿府城
※徳川秀忠

家康は、三男・秀忠に将軍職を譲ったあとも、幕府に対して絶大な権力を誇った。
いわゆる「二元政治」である。「江戸の将軍」に対して「駿府の大御所」として実権を掌握し続けていたのである。父と違い戦いの才能に恵まれなかった秀忠は関ヶ原の戦いでも遅参するという失態を犯しており、取り立てて注目するような武勇もない。

そして、そのことは譜代大名だけではなく、関ヶ原の戦い以後に臣下となった外様大名たちにも知れ渡っていた。だからこそ、睨みを利かせる意味で家康は完全な隠居生活に甘んじることはなかった。すでに三河から駿河までは譜代大名が置かれており、西方への構えは万全である。さらには温暖な気候に豊かな海の幸と米も美味いと評判だった。

住むにも良い上に、江戸との距離も遠すぎず近すぎずと、駿府は絶好の土地だったのだ。

しかし、ここで疑問が出てくる。
駿府のすぐ東には「天下の険」として有名な箱根山がそびえている。江戸との連絡を密にするなら、箱根の東にある小田原城に拠点を構えたほうがいいではないか?
一時は2代将軍秀忠が大御所として隠居する城とする考えもあったという名城である。構えも規模も申し分ないはずだ。それなのに、わざわざ険しい箱根を越えてまで連絡を取っていたのにはどのような理由があったのだろう。

風魔


※足柄山

箱根山に近い足柄山に風魔という一族がいた。
戦国時代後期の後北条氏勃興時に姿を現し、各大名に雇われていた伊賀者、甲賀者と戦いを繰り広げ、早雲から氏直まで北条五代の隆盛を影で支えたという。
いわゆる忍者である。

東西の交通路は、東海道が整備されるまで箱根を越えるルートと、三島から御殿場を迂回して足柄峠を越え、関本から国府津へ抜けるいわゆる「足柄道」という2つのルートがあった。その足柄道を縄張りにしていたのが風魔である。

徳川家康が天下を取った後は、盗賊として江戸の町を騒がせたといわれるが、信頼性が高く現存するような文献がほとんどないため、その実態は不明な点が多い。

また、家康は伊賀忍者として有名な、服部半蔵を召抱えていたとされている。服部半蔵の名は代々「半蔵」を通称の名乗りとした服部半蔵家の歴代当主である。そのため、忍者だったのは初代のみで、2代目以降は一族のまとめ役であり、その2代目・服部半蔵正成こそが家康に仕えていた。当然、諜報能力には優れていたはずであり、彼を通して徳川が風魔と繋がっていたという可能性は高い。

「武」と「治」


※駿府城の家康像

さて、ここでパズルのピースを集めてみよう。

家康は駿府に堅固な城を築いた。西方の安倍川を整備し、河川を広げてもいる。
太原雪斎には、合理主義者的な思想を学んだ。
息子の秀忠は戦いの才はなかったが、将軍職を継がせるだけの能力があった。
そして、西国から見て駿府の背後には自然の要害である箱根山があり、そこには風魔という忍びが存在していた。

これらのピースを組み合わせると導き出される答えはひとつ。

家康は、秀忠の政治基盤が磐石なものとなるまで、西方を警戒し、盾となるべく駿府を選んだ。大阪城の豊臣秀頼と、豊臣家恩顧の武将がまだ残っていた時代。大阪は地理的にも朝廷に近く、豊臣方が天皇を抱き込んで東征してくる可能性も皆無ではない。

そのような場合に備えて、事前に念入りな計画が動いていた。家康が秀忠を守るべく駿府に隠居したということなら、すべての辻褄が合う。

家康は「武」、秀忠は「治」というように、2人はあらかじめ役割を分担していたのである。

最後に

2代将軍・徳川秀忠は「凡庸」というイメージが一般化している。しかし、仮にも家康が後継者に選んだほどの男である。表向きは二元政治の形態をとり、凡庸な男を演じながら、10年の歳月を費やして2代将軍としての支配力を強めていった。

そのことを知っていたのは、父・家康だけだったのだ。

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