長井雅楽 吉田松陰との違い
長井雅楽(ながいうた)は、幕末の長州藩士であり「航海遠略策」という外交・施策の方針を提唱した指導者でした。
幕末の長州藩の思想家と言えば吉田松陰が有名ですが、長井は実際に長州藩の政策を担う立場にあったこともあり、より現実的な策を唱えた人物と言えました。
しかし、時代が大きく討幕へと舵を切る中にあって、幕府の存続を前提とした長井の考えは排斥され、最期は切腹の沙汰を受けて世を去ることになりました。
死後、薩長が中心となった明治維新が成立したことで、その思想の嚆矢として評価をされている吉田松陰とは対照的に、永井はむしろ実際の政治に関与する立場にいたことが非業の死を招いたとも言えました。
藩の直目付に就任
長井は、文政2年(1819年)に長州藩の上級藩士・長井次郎右衛門泰憲の長男として生まれました。
藩校・明倫館で学んだ長井は、その後藩主・毛利敬親の小姓を務めるようになり、そのときに敬親からの信を得ることになりました。
長井は、安政5年(1858年)には長州藩の重臣として直目付に就任しました。
元々開国を提唱していた長井は、文久元年(1861年)にその主張を「航海遠略策」としてまとめて藩に建白、これが藩論に採用されることになり、藩の指導的立場に立つことになりました。
藩論への採用と幕府への建白 航海遠略策
長井の「航海遠略策」は、長州藩のみに留まらず、朝廷や幕府内の公武合体支持者たちにも受け入れられました。
「航海遠略策」とは、そもそも鎖国は300年ほどの歴史しかなく日本古来の政策ではないので朝廷の指揮のもと開国し、海外に学び富国強兵に努め、ゆくゆくは海外から貢物を捧げられるほどの国を目指すべきという、遠大な献策でした。未来的には天皇率いる日本が海外を圧倒するという意味なので、開国派はもちろん攘夷派にも十分受け入れられる内容でした。
当時はただただ外国の言いなりになって開国してしまう幕府と、とにかく外国を倒すべきという攘夷の両極端の思想の中、非常に現代的な考え方であったと言えます、
このことが長井の悲劇的な最後にも繋がるのですが、当時は長州藩の藩論として主流となった考え方であり、藩主・敬親と江戸へ上ると、幕府にも同策の建白を行い認められることになりました。
一方この時点で、吉田松陰やその門下生達の過激な尊皇攘夷派とは敵対する関係にあり、幕府による安政の大獄で松陰が捕えられた際に、長井ら藩の重臣たちが幕府に対する申し入れなどを行わなかったことから、後には松陰の教え子である久坂玄瑞らから命を狙われることにもなりました。
失脚と切腹
しかし文久2年(1862年)に幕府内の公武合体派が失脚したことで、長州藩内でも尊王攘夷派が権勢を高め、長井を排斥する動きが大きくなりました。
同年3月になると京において岩倉具視や久坂ら尊王攘夷派の工作が功を奏し、長井の策は不敬なものとされ、藩主・敬親からも謹慎を命じられりことになり、更に同年6月には直目付の職を解かれました。
続く文久3年(1863年)には長井に切腹の命が下されました。長井はこの処分に納得せず、また藩内にも長井を擁護する勢力はあったものの、藩内の内戦に繋がることを恐れた長井は、最終的に切腹を承知したと伝えられています。
こうして同年の2月、萩の自邸にて長井は切腹して果てました。享年45でした。
長井の評価
長井の「航海遠略策」は海防・海軍力を強めて外交力を高めること、諸外国との開国で通商を進め国力を高める事を提唱しており、その意味では吉田松陰のみならず、後の明治政府の基本方針とも合致しているものと言えました。
しかし最大の相違点は、朝廷の立場と幕府の体制の是非を巡る部分だったと考えられます。
長井は幕府にも策の建白を行った通り、討幕を行うするという考えはもっていなかったと思われます。
この点において結果的に維新を成功させた尊王攘夷派によって、吉田松陰が顕彰される反面、政敵であった長井が評価されないという現状に繋がっているものと思われます。
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