今では日本の首都である東京。この土地は明治時代に入るまでは江戸と言われました。
しかし、その江戸は江戸時代に入るまでは、海が押し寄せて低湿地が広がる利用価値のない土地が多くを占めていました。
では、徳川家康はなぜこの地を本拠地に選んだのでしょうか?
今回はそこを中心に見てみたいと思います。
まさかの領土転封 家康の江戸入り
戦国時代もクライマックスの1590年。天下人である豊臣秀吉は関東の大名後北条氏を滅ぼし、ついに天下統一を果たしました。
しかし、秀吉には小牧長久手の戦いで負けかけた徳川家康という心配の種がありました。
家康は一応秀吉に臣従していましたが、もし秀吉が死んだらその後歯向かうかもしれない。
そこで秀吉は家康に対して、三河を始め中部地方などの地域から旧後北条氏の領土へと転封を命令されます。
実はこの転封にはいろんな説があり、後北条氏が60年以上治めていた関東地方へと転封させ家康の勢力を無くそうという説と、前の領土(130万石)よりも石高が上がっている(255万石)という理由から実は家康を信じて関東を委任したという説があります。
本拠地はどこにする?家康の本拠地選び
こうして家康は関東地方へと転封されますが、まず本拠地を選ばなければいけません。
当時関東地方には、本拠地にするのにふさわしい2つの地域がありました。
かつての鎌倉幕府と鎌倉府の本拠地であり、武士にとったら憧れの地である鎌倉と、後北条氏の本拠地でありすでに発展していた小田原です。
まず小田原ですが、小田原の街は総構えという街全体が堀に囲まれており、簡単には攻めることができない作りとなっており、小田原城はあの上杉謙信や武田信玄でさえ落とせなかった強固なものでした。
さらに秀吉の小田原攻めの時も、総攻撃の前に後北条氏の降伏によって終結しているため、小田原城自体はほとんど無傷だったこともあり、この小田原に本拠地を置こうという声も多かったと言います。
次に鎌倉ですが、鎌倉はかつて鎌倉幕府と鎌倉府の本拠地が置かれており、関東の武士にとってはまさにメッカみたいなところでした。
さらに、家康自身も源氏の子孫と名乗っており、源頼朝のことも尊敬していました。これを見ると家康が鎌倉に本拠地を置いてもなんの不思議もありません。
しかし、家康が選んだ新しい本拠地はまさかの江戸。なんで家康はこんな無名の土地を選んだのでしょうか?
その最大の理由は秀吉からの勧めと土地の広さにあると思います。
まず、秀吉から「本拠地は江戸にしたら良い」とアドバイスを受けていました。これは半ば強制に見えますが、もしかしたら江戸は良いということを知っていてそれを家康に教えたのかもしれません。
土地の広さは鎌倉や小田原に行ったことがある人ならわかると思いますが、鎌倉と小田原はすぐそばに山が迫っております。このおかげで攻められづらいというメリットがありますが、いかんぜん発展の限度が出てきます。
これから先、領地の経済力がものをいう時代なのに、鎌倉みたいな四方八方から山に囲まれているところに本拠地を置くのは、流石にちょっとと思われるかもしれない。
しかし、江戸はすぐそばまで海に面しており、利根川・隅田川が江戸湾に流れ出ている水運の便はすごくいい場所でした。また、陸においても江戸は関東地方の様々な街道が交差する重要な地点だったため、商人たちが訪れやすく、交通路を掌握しやすい場所だったと言えます。
こうして家康は鎌倉や小田原ではなく、交通に便利な江戸に本拠地を移し、新しい領地の支配をスタートしたのです。
家康の江戸整備計画
家康はまず、今の皇居付近まで迫っていた海を埋め立てる工事を始めていきます。
ちょうど近くには神田山という小さな山があり、そこを削って埋め立てに利用するという手法でどんどん土地を埋め立て、城や武家屋敷を建てられるぐらいの土地の広さを確保します。
さらに家康は当時、洪水で悩まされていた利根川の流れの向きを変えるという工事を始め運河を建設。海や川を利用した港や航路を開き、物の流通や商業の発達を促しどんどん江戸は発展していきました。
こうして着々と進んでいった江戸の整備。さらに家康は1600年の関ヶ原の勝利後、1603年にこの江戸の地に幕府を開きます。
こうして江戸は京都や大阪を凌ぎ、日本で一番の大都市へと成長を遂げていき、現在でもそれが続いているのです。
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