大岡越前とは
時代劇ファンなら南町奉行の「大岡越前」と北町奉行の「遠山の金さん」はお馴染みなはずだ。
大岡裁きと呼ばれる名奉行だった「大岡越前」のことはドラマで分かってはいるが、実際の大岡忠相の詳しいことはあまり知られていない。
実は大岡越前は6人存在した。徳川吉宗の享保の改革を支えたとされる大岡越前こと、大岡忠相(おおおかただすけ)について調べてみた。
大岡越前の生い立ち
大岡忠相は延宝5年(1677年)1700石の旗本・大岡忠高の四男として江戸に生まれる。
忠相は幼少から勉学と剣術に励み、貞享3年(1686年)9歳で11920石の旗本・大岡忠真の養子になる。
貞享4年(1687年)に5代将軍・徳川綱吉の謁見を許される。
元禄9年(1696年)従兄・大岡忠英の事件(人を殺した後に切腹した)に連座してしまい閉門処分になる。
元禄10年(1697年)には赦免されて元禄13年(1700年)に家督を継いだ。
大岡越前守誕生
忠相は寄合旗本無役から元禄15年(1702年)に書院番となって、翌元禄16年(1703年)には元禄大地震の復旧普請の仮奉行の一人に抜擢される。
宝永元年(1704年)に徒頭になり、宝永4年(1707年)に使番になり、宝永5年には目付(めつけ)となり、幕府の官僚として順調に出世する。
目付とは江戸幕府では10人がその職に就くことができ、若年寄が管轄し、江戸城の本丸または西の丸に置かれた組織である。
目付は旗本や御家人の監視と役人の勤務態度などを始めとした、政務全般の監察である。
目付は有能な人物が任命され、その後、遠国奉行・町奉行から勘定奉行になるいわゆる出世コースであった。
町奉行になる前に目付を経験することは必須であり、老中が政策を実行する前に目付の同意がいるという、将軍や老中に直接ものが言える立場である。
目付の後の正徳2年(1712年)に遠国奉行の一つである山田奉行に就任する。
山田奉行は伊勢奉行と称される、伊勢神宮の守護や造営修理など全般を取り仕切る役職である。
忠相は山田奉行時代に山田(現在の伊勢市)と松坂(現在の松坂市)の境界を巡る訴訟で、今までの前例では御三家の紀州藩領松坂に有利だった訴訟を公正に裁いた。
当時の紀州藩主の徳川吉宗は忠相の公正な裁きを認めたという逸話が残っているが、これは歌舞伎の題材を狙った作り話だという説もある。
忠相は享保元年(1716年)に普請奉行になり江戸の土木工事や屋敷割を指揮する。
同年8月には第8代将軍に吉宗が就任。
忠相は享保2年(1717年)に江戸町奉行(南町奉行)に就任する。
普通、町奉行になるのは60歳頃だったが、39~40歳でなった忠相は異例の出世だと言える。
北町奉行には中山時春が就き、中町奉行には坪内定鑑が就くが、坪内定鑑の名乗りが忠相と同じ「能登守」だったために忠相は「越前守」と改める。
この時に「大岡越前守」が生まれたのである。
町奉行とは
町奉行(まちぶぎょう)とは、寺社奉行と勘定奉行とあわせて三奉行に称される役職である。
町奉行は旗本が就く役職では最高位とされる。
基本的に定員は2名で北町奉行と南町奉行に分かれるが、江戸の町を南北に2つに区切って管轄している訳ではなく月番制でやっていた。
任期の定めはなく、町奉行ができた初期には大名がやっていたこともある。
その後、旗本で町奉行を行うものの石高は約3,000石であった。
目付→遠国奉行・勘定奉行→町奉行という経験を積んだものが任命されて、目付経験者でないと任命されない。
町奉行は江戸の民政を担当する役職で、町触という法令を出すことができ、行政権と裁判権を有する。
日常業務は四つ時(午前10時)に江戸城に登城して老中らに報告と打ち合わせをした後に、他の役職者と公用文書の交換などを行い、午後からは奉行所で決済と裁判を行う。
司法・行政・治安維持を管轄しているために職務は多忙を極め、とてもドラマのように一人で町に出歩いて犯罪捜査や犯罪現場に出向くなんて暇はなかったのだ。
今で言う知事・裁判官・警視庁長官・消防庁長官を兼ねた役職である。
移動はお付きの人が常に25人程度いて、駕籠に乗っていた。
町奉行のドラマとの違い
また、ドラマでは「遠島に処す」「打ち首獄門」「死罪」と言い渡すが、町奉行の権限は中追放までである。
重追放(田畑・家屋敷・家財の没収、武蔵・山城など十五か国及び東海道筋・木曽路筋への立ち入り禁止)以上の刑罰は老中に上申することになっている。
重犯罪のお裁きは、実際には老中や将軍が最終決定したのだ。
部下には与力と同心がいるが、彼らは旗本や御家人であり将軍家の家臣であって、老中の家臣である町奉行と直接的な主従関係は無かった。
町奉行は2~5年ほどで異動するので、在任期間は与力に気を使い、夏・冬に贈り物をしたり自腹でごちそうをしたりなどしていた。
ドラマでは南北の町奉行は仲が悪く張り合っているように描かれているが、実際は出世コースの良いライバルではあるが互いに多忙な業務を有し、同じ悩みを持つ者同士だったのである。
中町奉行は忠相が在任期間の短い間だけできた、町奉行の補助役であった。
町奉行所という名称は役職から付いた名前で、町人からは「御番所(ごばんしょ)」と呼ばれていた。
場所は南町奉行所が現在の有楽町で、北町奉行所は東京駅の八重洲口付近だった。
与力の数は南・北奉行所に25名ずつで、同心は100名ずつ。
忠相がいた当時の、江戸の人口約50万人に対して、250名ほどで行政・司法・治安維持・防災にあたっていたのである。
しかも犯罪捜査にあたる警察業務を担当するものは少なく南北合わせて30名ほどで、十手を持った岡っ引きは同心たちが自腹で雇っていたのだ。
ドラマと現実はまるで違ってお奉行様は大変忙しく「遠山の金さん」のように一人で出歩くことはなく、与力や同心も人不足の中で超多忙な人たちだった。
大岡越前の功績
忠相は吉宗の享保の改革の中で江戸の都市政策に携わることになり、中町奉行の廃止などの奉行の機構改革を行う。
町代の廃止と町名主の減員を行い、木造家屋の過密地域での防火体制強化のために、町火消組合を創設した後に「いろは四十七組」という小組に再編成する。
瓦葺屋根・土蔵の奨励や、火除地の設定に火の見制度を確立するなど、忠相によって江戸の防火対策は強化された。
目安箱によって要望のあった貧病人のための、小石川養生所を設置した。
青木昆陽を書物奉行に任命して、飢饉対策用のサツマイモの栽培を助成する。
米価対策には米会所の設置と公定価格の徹底指導を行った。
物価対策として株仲間の公認など組合政策を指導して、貨幣政策では流通量の拡大を進言している。
これによって幕府は元文元年(1736年)忠相と勘定奉行・細田時以を最高責任者にした貨幣鋳造に着手することになる。
同年8月に忠相は寺社奉行となり、公事方御定書の追加改定や公文書の収集・編纂・整理などを行う。
忠相は石高が上り5,920石となって、足高文を加えて1万石の大名格になった。
寺社奉行は本来大名が就く役職であったが、旗本の忠相が就任するのは異例だった。それだけ吉宗の信頼が厚かったのである。
寛延元年(1748年)10月には足高分が正式に加増され、三河国西大平(現在の岡崎市)1万石を領して大名となる。
江戸時代に町奉行から大名になったのは忠相ただ一人だけである。
この後、大岡忠相の子孫は七代まで続くが、3代目が死去した時に能登守となっているために、大岡越前は全部で6人いたことになる。
大御所となった吉宗を支えていたが寛延4年(1751年)大御所・吉宗が死去し、忠相は葬儀を取り仕切ろうとするも体調が悪化して早退している。
この年に体調の悪化を理由に寺社奉行を辞退する。
翌宝暦元年(1752年)12月19日に享年75歳で死去した。
大岡裁き
町奉行の裁判の見事さなどから、忠相は庶民の間で名奉行と評判になった。
小石川養生所を建てた人情味あふれる政策が庶民の味方として認識されたのと、時代が庶民の文化の隆盛期だったこともあり創作「大岡政談」として写本や講談で忠相の話は庶民に知られた。
三方一両損、徳川天一坊、村井長庵、畔倉重四郎、後藤半四郎、煙草屋喜八、越後伝吉、小間物屋彦兵衛、縛られ地蔵、五貫裁きなど多数のエピソードがある。
大岡政談の中でも最も有名なのは「子争い」であるが、誰もが一度は聞いたことはあるだろう。
ある所に一人の子供がいたが、母親を主張する女がなぜか二人いた。
二人の主張は収まらずに大岡越前の奉行所でお裁きを受けることになった。
大岡越前は二人に「その子の腕を一本ずつ持って引っ張り合い勝った者を母親として認める」と提案する。
そして子供の手を引っ張り合うも当然子供は「痛い!痛い!」と泣き叫ぶ。
その声を聞いて片方の女が手を離すと、勝った女は子供を連れて帰ろうとする。
そこで大岡越前は「その子の母親はこちらの方だ、私は引き寄せた方が勝ちとは言っていない。本当の母親なら痛いと叫ぶ子供にどうして続けられる」と言った。
本当にこのよう裁きをしたのかは定かではないが、大岡越前守忠相が町奉行時代にこのような人情味あふれるお裁きをしたことは確かである。
忠相が実際に裁いたのは享保12年(1727年)の「白子屋お熊事件」だけではないかとされている。
おわりに
260年以上の江戸時代の中で、藩士から側用人に出世した柳沢吉保と、旗本から大名に出世した大岡忠相は出世の2大巨頭である。
良い噂が少なかった柳沢吉保に比べて、大岡忠相は庶民のアイドル的な人気を得て「大岡政談」という歌舞伎や講談などに創作された。
その人気は現在にまで続き、時代劇ドラマで「大岡越前」として「遠山の金さん」と並び称されるのだ。
質素倹約を旨とする享保の改革において、江戸の町の治安・防災・病院建設と庶民のためになる数々の政策と人情味あふれるお裁きは、民衆の心を掴んだのである。
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