埼玉県を代表する偉人と言えば、令和3年(2021年)大河ドラマ『青天を衝け』の主人公である「日本実業界の父」渋沢栄一(しぶさわ えいいち)と、令和4年(2022年)放送予定の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で活躍予定の御家人・畠山重忠(はたけやま しげただ)が有名ですね。
2年連続で大河ドラマにゆかりの深い人物を輩出するのは珍しいと思いますが、埼玉県の誇る偉人は、彼らだけではありません。
渋沢栄一、畠山重忠と並ぶ埼玉県の三大偉人(※諸説あり)……最後の一人は塙保己一(はなわ ほきいち)。
「み 見えずとも 心で学ぶ 塙保己一」
※「さいたま郷土かるた」昭和57年(1982年)11月発行旧版より
※ちなみに、渋沢栄一は「に 日本の産業育てた 渋沢翁」、畠山重忠は「し 重忠の 面影のこす やかた跡」です。
はなわほきいち……名前に強烈なインパクトはあるものの、どんな功績を上げたのか県外民としては正直ピンと来ませんが、今回はそんな塙保己一の生涯をたどってみたいと思います。
幼くして失明
塙保己一は江戸時代中期の延享3年(1746年)5月5日、武蔵国児玉郡保木野村(現:埼玉県本庄市)の農民・宇兵衛(うへゑ)の子として誕生しました。
丙寅(ひのえのとら)の年に生まれたので幼名は寅之助(とらのすけ)と名づけられ、幼少時から身体が弱かったものの、草花の観察を好んでとても物知りだったそうです。
5歳となった寛延3年(1750年)に疳病(かんびょう。胃腸の病気)を患い、その後遺症で7歳となった宝暦2年(1752年)の春に失明してしまいました。
「これは……年齢を二つ引いて、名前もそのように改めねばなりませんな」
占いの結果なのか、修験者にそう告げられた宇兵衛は、寅之助を寅年の2年後に当たる辰(たつ)年に生まれたことにするため、名前を辰之助(たつのすけ)と改めさせました。
※このため、史料によって辰之助の年齢が2歳ズレて記録されていることがあります。
ちなみに、辰之助には卯(う)年=延享4年(1747年)に生まれた年子の卯右衛門(うゑもん)がおり、2年分の人生を巻き戻され、弟よりも年下にされてしまった胸中は、さぞや悔しかったことでしょう。
※十二支の順番:子(ね)⇒丑(うし)⇒寅(とら)⇒卯(う)⇒辰(たつ)⇒巳(み)……
しかし、辰之助の目が完治する事はなく、次に「これは本格的に修行を積むよりありませんな」との助言に従い、今度は修験者の正覚房(しょうがくぼう)に弟子入りして多聞房(たもんぼう)の法名を授かりますが、やはり視力は戻りませんでした。
学問で才能を開花させる
……ともあれ、嘆いていても仕方がありません。目でものを見ることを諦めた辰之助は、聴覚、触覚、嗅覚、そして記憶力を研ぎすまして生きようと決断。
一度聞いた話や手指に触れた感覚、かいだ香りなどは決して忘れず、和尚の法話を一言一句違えることなく暗唱できるほどに成長したと言いますが、よほど精進したことでしょう。
そんな辰之助が学問を志し、江戸へ出ようと決心したのが宝暦10年(1760年)、15歳の時でした。
「どうか、私を弟子入りさせて下さい!」
江戸へ出てから3年目の宝暦12年(1762年)、辰之助は雨富須賀一(あめとみ すがいち)検校に入門を願い出ます。
これが認められて弟子となった辰之助は千弥(せんや)と改名し、鍼灸や按摩、音曲などの修行に励みますが、不器用だったためにどれも上達できず、一時は自殺未遂に及ぶほど悩んでしまいます。
「そなたは手仕事よりも学問の方が向いているようだから、この際方針転換してみてはどうか」
千弥の適性を見込んだ師匠は様々な学問を修めさせ、国学を萩原宗固(はぎわら そうこ)、漢学と神道学を川島貴林(かわしま たかしげ)、法学を山岡浚明(やまおか まつあけ)、医学は品川東禅寺(とうぜんじ)で、そして和歌を閑院宮(かんいんのみや)に師事するという英才教育を施しました。
目の見えない千弥は抜群の記憶力を発揮して才覚を顕わし、宝暦13年(1763年)に衆分(しゅぶん。盲官の一つ)となります。
任官の記念に、出身の村名を苗字として保木野一(ほきの いち)と改名。その後も晩年の賀茂真淵(かもの まぶち)に入門するなど学問に精励し、安永4年(1775年)には勾当(こうとう。盲官の一つ)に昇進しました。
ここでようやく有名な塙保己一(はなわ ほきいち)と改名しましたが、塙とは師匠・雨富検校の本姓で、その後継者たらんと自負していたのかも知れません。
『群書類従』の編纂事業を成し遂げる
さて、盲目ながら抜群の記憶力を駆使して高度な学問を修め続けてきた保己一。
「今まで学んできた限りあらゆる学問をまとめ上げ、後学に資するよう託すことこそ、私を教え導いて下さった恩師たちへ報いる道である!」
安永8年(1779年)、保己一は国学・国史の集大成として『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』の出版を決意しました。
「どうかこの一大事業を成就せしむるべく、ご加護とお導きを下さいませ……」
学問の神様である菅原道真(すがわらの みちざね)を祀る天満宮へ祈願し、徳川将軍家をはじめ諸大名や神社仏閣、公家たちの協力を得て古書の編纂を開始。
神話古代から江戸時代初期までの史書や文学、律令や民俗などを可能な限り網羅した『群書類従』は寛政5年(1793年)から文政2年(1819年)にかけて20年以上の歳月をまたいで刊行されました。
途方もない大事業に取り組んでいた間、気づけば検校(天明3・1783年)、総録(寛政7・1795年)、十老(文化2・1805年)と盲官も昇進、ついに文政4年(1821年)2月には盲官のトップである総検校(そうけんぎょう)にまで上り詰めたのです。
かつて5歳の幼さで失明し、人生に絶望してから70年以上。ひたすら学問に邁進し、後世に誇れる仕事を遺したその年の9月、保己一は76歳で世を去ったのでした。
終わりに
どんな苦難も乗り越えて、日本の歴史研究に多大な功績を遺した塙保己一。
「み 見えずとも 心で学ぶ 塙保己一」
目が見えなくても、あるいは見えないからこそ学べるものがあったのかも知れません。
渋沢栄一が「日本実業界の父」であるなら、塙保己一は「日本史研究の父」と言えるのではないでしょうか。
埼玉県のみならず日本国民の誇りとして、塙保己一の功績に感謝し、その偉業を次世代に伝えていきたいものです。
※参考文献:
- 太田善麿『人物叢書 塙保己一』吉川弘文館、1988年4月
- 堺正一『今に生きる 塙保己一 盲目の大学者に学ぶ』埼玉新聞社、2003年11月
何をした人なのか、もっと詳しく書いてほしいです。
色々な記事をもっと載せてほしいです。
もっとそのとうじのひとびとのねがいかいてほしいです。