江戸城内での刃傷事件
江戸城内での刃傷事件は過去に7件起きており(※9件または11件とも)、一番有名なのは赤穂浪士の討ち入りで知られる「浅野長矩事件」である。
今回書かせていただくのは7番目の「松平外記(まつだいらげき)事件」、いわゆる「千代田の刃傷」と呼ばれる事件である。
旗本・松平忠寛(まつだいらただひろ)通称:外記(げき)が加害者である。
彼は同じ江戸城内で働く同僚たちからいわゆる「いじめ」を受け、同僚4人を殺害し1人に傷を負わせ、自らは自害して果てるという衝撃的な刃傷事件となった。
事件発生後、江戸城内では直接の上司らによる隠ぺい工作が行われたが、松平外記は大奥に務める叔母に遺言とも言える書き置きを渡していたため事件が露見することとなった。
今回は、いじめが原因で5人が殺傷された「千代田の刃傷」と呼ばれる事件について解説する。
松平外記とは
松平外記は、寛政3年(1791年)旗本・松平忠順の子として生まれる。
始めは「内記」と称し後に「外記」と改めるが、正式な名は「忠寛」である。ここでは一般的に知られる通称の「外記」と記させていただく。
外記は弓術・馬術に長じ、几帳面で神経質な性格でとても穏やかな人物であったが、実は癲癇性が強く人付き合いが苦手であったという。
旗本として11代将軍・徳川家斉に仕え、書院番士として蔵米300俵で働いていた。
事件の背景
外記が務めた書院番は、将軍の馬廻衆(親衛隊)としての高い格式を持ち、当初は4組によって形成され後に6組に増員された。
親衛隊という性格から西の丸が使用されている時(大御所または世継ぎがいる時)は、西の丸と本丸に別々に4組が置かれる。
一組の構成は番士50名・与力10騎・同心20名からなり、番頭はその組の指揮官である。
朝番・夕番・泊番があり、有能な番士には出世の道が開かれていた。
当時、旗本の風紀は乱れており、番士の中でも新人・古参の区別は厳しく新参者はまるで奴隷のように酷使虐待されていた。
外記がいた西丸書院番の酒井山城守組では、古参による新参者へのいじめが横行することで有名な職場であった。
その中で外記は常に己が正義と信じるところを主張し、いささかも屈することがなかったためにますます古参たちから疎まれたのである。
着任早々に外記の父・松平忠順の後押しによって、追鳥狩で勢子(せこ)の指揮を執る拍子木役に抜擢されるが、このことが慣習を無視した人事だと古参の反感を一身に浴びることになった。
しかも追鳥狩の予行演習に遅刻した外記は重大な落ち度だと責められ、拍子木役を辞退し病気療養として自宅に引き籠った。
追鳥狩の翌日から職場復帰したが、古参からの嫌がらせや面罵は収まらなかったのである。
刃傷事件
文政6年(1823年)4月22日、外記が西の丸御書院番所2階休息所に行くと、いつものように嫌がらせを受けた。
外記はついに怒りを抑えることができず、本多伊織・戸田彦之進・沼間左京の3人を斬り殺し、間部源十郎・神尾五郎三郎の2人には傷を負わせ、自らは自害して果てた。
間部源十郎は深手により翌々日に死亡したため、江戸城内において合計5人が死んで1人が傷を負うという衝撃的な刃傷事件が起きてしまった。
同じ書院番の池田吉十郎・小尾友之進などその場に居合わせた者は狼狽し逃げ隠れ、殿中は大騒動であったという。
隠ぺい工作
刃傷事件発生直後、直接の上司である酒井山城守を交えて事件を隠ぺいする工作が行われた。
目付は正式な見分書には死者が出たことを記載せず、後の保身のために真実を記した文書を封印文書として作成した。
本丸から来た侍医は死亡者を危篤状態と偽るために外科的工作と虚偽報告をするように頼まれ、一旦は拒んだものの結局は従ってしまう。
血で染まった20畳の畳は深夜のうちに取り替えられた。
こうして外記が起こした刃傷事件は闇に葬られそうになったが、実は外記が大奥に務める叔母に鬱憤を吐露した遺言とも言える書き置きを渡していたため、大奥を通じてこの事件が露見することになってしまった。
そして時の老中・水野忠成が厳重な詮議を行い、最初に殺害された本多伊織・戸田彦之進・沼間左京の3人の所領は没収され、逃げ回って傷を負った神尾五郎三郎は武士としてなってないとされて改易となった。
事件の反響
自害した外記の父・忠順は御役御免、家督は子の栄太郎が相続した。
殺害された本多伊織の家は子・右膳が家督を相続したが、米300俵に減給されてしまう。
戸田彦之進と神尾五郎三郎の家は改易・絶家、間部源十郎は翌々日に亡くなっていたが形は隠居とされた。
他の西の丸御書院番の同僚たちは御役御免という処分となった。
隠ぺい工作に失敗した「松平外記事件」の顛末は瓦版で報じられ、この事件についての落書(いたずら書き)も数多く書かれた。
江戸市中では、外記を取り押さえることも出来ず狂刃から逃げ惑った旗本の不甲斐なさを物笑いの種としたのである。
この事件は曲亭馬琴らの「兎園小説余録」にも収められ、歌舞伎や狂言にもなった。
そして宮崎成身の雑録「視聴草」によれば、事件から7か月後、学問所の昌平黌で外記の模倣犯とも言える事件も発生している。
おわりに
「出る杭は打たれる」新参者が父の力を使って大役に選ばれてしまえば古参の者は面白くはないだろうが、殺害を引き起こすまで「いじめ」で追い詰め、大きなしっぺ返しを受けてしまったという衝撃的な刃傷事件であった。
今も昔も「いじめ」というものがあり、上の者たちは無かったことにして隠ぺい工作を行うのは江戸時代でも同様だったようである。
【他の刃傷事件】
江戸城での最初の刃傷事件 「豊島明重事件」
水野忠恒事件 「狂気乱心いきなり斬りつけ~二度目の松之大廊下刃傷事件 」
逆から見た忠臣蔵 「吉良上野介は本当に悪者だったのか?」
注目すべきはいじめた側がかなりきつい裁きを受けてるとこやね
確かにそれまでの幕府の対応とは違いますね。
でも今まで刃傷事件を書いきた人と違うような気がするのだが?
今まで、刃傷事件はrapportsさんですよね、
文章の感じも編集部じゃあない感じがするな
rapportsさんの文章です!すみません修正いたしました。