江戸城の天守閣
徳川家康が豊臣秀吉の命で関東に移封されて江戸に入国した当時の江戸城は、太田道灌が康正3年(1457年)に築城したものでとても荒れ果てていた。
家康が天下分け目の「関ヶ原の戦い」で勝利し、征夷大将軍に就任した慶長8年(1603年)から天下普請によって新たな江戸城の拡張が始まった。
その後、わずか3年でほぼ完成し、その後も修築は続いた。
その場所は現在の東京都千代田区の皇居のある周辺であった。その象徴である天守は、なんと現存する日本一の天守を擁する世界遺産・姫路城の天守より10m以上も高く、体積はほぼ3倍もあり、日本史上最大の天守だったとされている。
2代将軍・秀忠は家康の死後、天守を解体し新たな天守を築き、3代将軍・家光も秀忠の死後、その天守を解体し新たな天守を築いたという。
つまり、江戸城には過去に天守が3つあったのである。
なぜ将軍が代わると天守を新しく築いたのか? 江戸城の天守についての謎に迫ってみた。
家康の天守(慶長度天守)
家康の時代の天守は当時の元号をとって「慶長度天守」と呼ばれている。
慶長11年(1606年)天守台の築造は福岡藩主・黒田長政が担当し、翌慶長12年(1607年)に関東・奥羽・信越の諸大名に命じて天守台および石類などを修築した。
関東の諸大名を5手に分け、80万石で石を寄せ20万石で天守台の石垣を築き、設計は築城の名手である藤堂高虎が行い、この年に慶長度天守が完成した。
場所は本丸中央の西側で、天守の形式は望楼型天守、天守の階数は5重6階(地上5階・地下1階)、天守の高さは44.3mまたは48m、天守台の石垣の高さは14.5mまたは18.2mである。
これは当時日本一の高さと大きさ(体積)を誇る天守で、天守台と天守の高さを合わせると約60m以上もあり、屋根は鉛瓦葺で外壁は白漆喰総塗蘢であった。
外壁に使われた白漆喰は、現在の東京都青梅市付近から採れた石灰石を約10日間燃やし続け、その後に水をかけて石灰石の表面が割れて白い粉状になる「消石灰」を主原料にした。
消石灰にマツヤニ・ふのり・和紙・植物の繊維・菜種油・酒を混ぜて白い漆喰を作り上げ、それを外壁として使用した。
当時のことを書いた「慶長見聞録」では、家康の天守について「夏も雪のように見えて風流だ」「天守の屋根は鉛瓦でふかれていた」と記されている。
鉛瓦は屋根に鉛の板を貼りつけたもので、経年劣化で錆びると色が白くなって屋根全体が白く輝いて見える。
つまり、家康が築いた天守は高さ60mを超え、外壁だけでなく屋根も白い巨大な「白亜の搭」だったのである。
なぜ家康は白い天守にこだわったのだろうか?
家康の天守の位置を想定し、現在の東京の銀座中央通りと八重洲通りが交差する地点から東京駅方面に目を向けると、そこには左に富士山、右に家康の天守が並んで見える形になるという。
つまり「富士山」と「家康の天守」、二つの巨大な白いものが並ぶ。
家康は日本と江戸の象徴を一つの風景にしたかったのである。
家康の天守のもう一つの特徴は屋根に使われた鉛瓦である。家康の天守は下の階の正方形から上層階に行くほど徐々に正方形が小さくなっていき、まるで富士山のような形をしていた。
この天守の形も当時の最新技術で築かれ、鉛瓦も当時の技術ですごく薄くすることができた。
それまで戦国時代に築城された屋根の瓦は土を焼いたもので、重い上に何枚も重ねなければいけなかった。
そこで薄くて軽く、しかも錆びると白くなる鉛瓦が用いられたのである。
家康の巨大な白い天守は、豊臣秀吉が築いた大坂城の天守よりはるかに大きかったので、豊臣恩顧の大名たちや外様大名たちへの反乱を抑える抑止力にもなっていたのである。
秀忠の天守(元和度天守)
家康が亡くなって7年後の元和9年(1623年)、2代将軍・秀忠は家康が築いた天守を解体し新たな天守を築いた。
その当時の元号から「元和度天守」と呼ばれている。
徳川家の大工の棟梁として仕えた中井家、その中井家の子孫は当時の秀忠の天守の設計図「江戸御天守」という図面を保存している。
それを見ると秀忠の築いた天守は殆ど家康の天守と同じであり、形式は少し違う層搭型天守で、天守の階数は家康と同じ5重6階(地上5階・地下1階)であった。
天守の高さは41.5m、天守台の石垣の高さは12.7mで、家康の天守より少し低かったが屋根は鉛瓦葺で外壁は白漆喰総塗蘢であり、高さ以外はほぼ一緒であった。
同じような天守であるならば、なぜ秀忠は家康の天守を解体し新たに天守を築いたのだろうか?
家康の天守は江戸城本丸の中央部にあったが、秀忠の天守は江戸城の北の端に築かれた。
それによって江戸城本丸には広大な空地ができ、そこに秀忠は巨大な御殿を築いた。
豊臣家が滅亡し大規模な戦がなくなる中、武力に代わるものとして徳川の威信を見せつけるために巨大で豪華な御殿が必要と考えたのである。
家康と同じような天守は残しつつ、加えて大きな御殿を築き、そこに将軍との謁見の間や諸大名らが謁見に控える間、政治の中枢を担う政務のための間などを築いた。
家康の天守を移築したのは、徳川の威信を世に示すために政治の新たな心臓部である御殿を築くためであったのだ。
家光の天守(寛永度天守)
3代将軍家光も父・秀忠が亡くなって6年後の寛永15年(1638年)に、秀忠の天守を解体し新たな天守を同じ場所に築いた。
当時の元号から「寛永度天守」と呼ばれている。
家光の築いた天守は秀忠の天守と同じ層搭型天守、天守の階数は5重6階(地上5階・地下1階)であった。
天守の高さは秀忠よりも高い44.8mまたは51m、天守台の石垣の高さは13.8m、家康や秀忠の天守よりも少し高かった。
大きな違いはその外観で、家康・秀忠の「白」とは異なり「黒」であったため、家康・秀忠の天守の面影はまったくなかった。
家光の天守の外装に使われたのは足尾銅山から採れた銅であった。その銅は「御用銅」と呼ばれ、足尾銅山から陸路で現在の群馬県伊勢崎市の利根川の河岸まで運ばれ、そこから船で利根川を下って江戸に運ばれた。
銅自体の色は黒くはないのだが、銅の板に塗られた錆止めが黒であり、屋根の瓦も銅の瓦が使われていたため「黒い天守」となったのである。
この当時、足尾銅山は幕府の直轄領で年間約1,500tもの銅が採掘されていた。
そのため幕府は「寛永通宝」という国産の銅銭を初めて作ったのである。
その前までは通貨の銅銭は中国から輸入されたものなど様々な産地のものが使われており、品質が安定していなかった。
足尾銅山から採掘された銅で造られた「寛永通宝」が、全国で流通したことで日本国内の通貨制度は安定していった。
「銅の時代」となったことで家光は天守に大量の銅板を使い、屋根も銅瓦にした。
実は銅は非常に強い金属で耐久性に優れていたし、何よりも銅はお金に使われるものだった。
つまり家光は新しい時代のお金(銅)の天守、まさに「天守の中の天守」を築き上げ、天下に徳川家の威信を示したのである。
明暦の大火
ところが明暦3年(1657年)江戸の町の大半を焼いた大火災「明暦の大火」が発生し、家光の天守にもその火が飛び火し天守は焼失してしまった。
天守の再建案が持ち上がり天守台の石垣が造られたが、幕府は江戸の町の復興を優先し、この天守台の上に天守を築くことはなかった。
天守再建に使われるはずであった木材や屋根瓦などの大量の銅は、江戸の町の神社仏閣の多くの部材や屋根の瓦として使われ、そのおかげで江戸の町の復興も進んでいった。
その代わりに江戸城内の富士見櫓が天守の代用となったのである。
その後、6代将軍・家宣に重用された新井白石が天守の再建策を計画し、図面や模型の作成も行われたが、新井白石の失脚によってこの計画は実現しないで終わる。
その後、天守再建の話は出ず、現在は皇居に天守台の石垣のみが残っている。
おわりに
・家康の天守は富士山のような雪山をイメージさせて徳川の世の象徴とするため
・秀忠の天守は家康の天守を移築し、そこに幕府の権威を示す大きな御殿を築くため
・家光の天守は当時のお金「銅」を使って、徳川家の威厳を見せるため
など、それぞれに理由があったのである。※将軍の代替りのデモンストレーションの意味もあったという説もある。
将軍のお膝元江戸城に天守がないのは気になっていた。
今回の記事はためになりました。特に火事がなければ黒い銅の天守が東京にあったと思うと。
なんかすごくよかったです。
新井白石が築城した天守閣見たかったなぁ~。