平岡円四郎とは
平岡円四郎(ひらおかえんしろう)とは、以前放送されたNHK大河ドラマ「青天を衝け」で、徳川慶喜の側近として俳優・堤真一が演じた人物である。
元々旗本の四男として生まれた円四郎は、平岡家の養子となり幕府の学問所「昌平黌」きっての秀才として、幕臣の川路聖謨や水戸藩の藤田東湖などの人物からその才を見いだされ、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ・後の徳川慶喜)の小姓に推薦されて側で仕えた。
しかし将軍継嗣問題に敗れた一橋派は「安政の大獄」によって弾圧され、円四郎も罷免されて甲府勤番に左遷となる。
その後、慶喜は将軍後見職となり、円四郎も甲府から呼び戻され一橋家に復帰する。その頃、尊王攘夷派の志士として倒幕を企てていた渋沢栄一を一橋家に仕官させて慶喜と謁見させている。
その後、過激な攘夷派から「尊王攘夷の元祖である水戸藩に生まれた慶喜が攘夷に動かないのは、側近・円四郎のせいである」と勘ぐられ、円四郎は暗殺されてしまう。
渋沢栄一を見いだし徳川慶喜(一橋慶喜)を支えた秀才、平岡円四郎とはどのような人物だったのだろうか。
出自
平岡円四郎は文政5年(1822年)旗本・岡本忠次郎の四男として生まれる。
父・忠次郎は勘定奉行配下の役人だったが、優れた漢詩を詠んで「岡本花亭」という名で知られた文化人だった。
旗本・平岡文次郎の養子となり、幼い頃から聡明だった円四郎は幕府の学問所「昌平黌」の頭取を務めるなど、幕閣からの評判も良く江戸では広く知られた人物となっていった。
昌平黌きっての秀才と言われた円四郎だったが、少し変わり者だったことから働きどころに恵まれなかった。
そんな時、御三家水戸藩の徳川斉昭の七男・慶喜が御三卿・一橋家を継嗣することになった。
しかし一橋家には幾つもの離れた小さな領地があてがわれており、まとまった広さの領地や居城がなく屋敷も江戸城内にあり、御三家の水戸家とは異なっていた。
つまり一橋家には地縁血縁で強く結びついた家臣団はなく、幕臣として仕えていた旗本たちが一代限りの出向で一橋家に移籍するなど入れ替わりが多く、忠義の家臣はいなかったのである。
そこで幕臣の川路聖謨や水戸藩の重臣・藤田東湖は、円四郎の才能を見込んで一橋慶喜の小姓に推薦した。
慶喜は文武両道のとても聡明な人物だった。それだけに円四郎は当初、逆に働き甲斐がないと感じていたようである。
しかし慶喜の非凡な才を知ってからは、熱心に慶喜を支えるようになっていった。
将軍継嗣問題
12代将軍・徳川家慶は慶喜の才覚を認め、ゆくゆくは将軍職を継がせる含みを持たせながら一橋家の養子とした。
その後、後継問題を曖昧にしたまま家慶は病没し、13代将軍となったのは実子の家定だった。
しかし13代・家定は元来病弱で実子をもうけることが期待できなかったので、次の将軍には慶喜がつく可能性があった。
だが肝心の慶喜にその気がなく、老中・阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬、福井藩主・松平春嶽、水戸の徳川斉昭らが一橋派として慶喜を次期将軍に推し、円四郎も一橋派として次期将軍就任へと動いていた。
その後、慶喜を推していた老中・阿部正弘が急死し、それまで外様大名らに意見を求めることに反発していた彦根藩主・井伊直弼や会津藩主・松平容保らは、親藩及び譜代による権力独占への回帰を主張し、まだ幼い徳川家の慶福を次期将軍に推した(南紀派)。
そして井伊直弼が大老に就任し、将軍継嗣問題は南紀派の勝利となった。
14代将軍には紀州徳川家の慶福が就任することになり、安政5年(1858年)14代将軍・徳川家茂がわずか13歳で就任したのである。
安政の大獄
大老・井伊直弼による尊王攘夷や一橋派の弾圧「安政の大獄」が始まると、尾張藩主・徳川慶勝、福井藩主・松平春嶽、水戸藩の徳川斉昭と慶篤父子、そして一橋慶喜ら、多数の藩主たちは隠居謹慎命令を受けることになる。(※慶篤は登城禁止と謹慎)
彼らは、井伊直弼が無勅許でアメリカとの条約調印したことを責めたことで弾圧を受けたのである。
円四郎と協力していた福井藩士の橋本佐内は死罪となり、円四郎も一橋派の危険人物と見なされて小十人組に左遷され、安政6年(1859年)甲府勝手小普請にされてしまった。
「安政の大獄」で前藩主・徳川斉昭が永蟄居となり、そのことを恨まれていた井伊直弼は安政7年(1860年)「桜田門外の変」で、水戸藩を脱藩した浪士たちの襲撃で殺害されてしまう。
復帰と渋沢栄一
慶喜を推していた薩摩藩主・島津斉彬が急死し、文久2年(1862年)その意志を継いだ薩摩藩の国父・島津久光と勅使・大原重徳が薩摩藩兵を伴って江戸に入った。
彼らは勅命を楯に幕府の首脳人事へ介入し、7月6日に慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政事総裁職に任命させることに成功し、一橋派は復権する。
円四郎も甲府から江戸に戻り一橋家の家臣へ復帰した。
その頃、渋沢栄一と渋沢喜作は武蔵国血洗島から江戸へ学問と剣術修行に来て攘夷派に傾倒し、大規模な計画を企てようとしていた。そして円四郎は一橋家の家臣・川村恵十郎によって彼らに引き合わせられた。
円四郎は彼らを気に入り、栄一と喜作に一橋家への仕官を打診したが、栄一と喜作はその誘いを断った。
しかし円四郎は栄一と喜作に「上洛の時には平岡円四郎の部下を名乗っても良い」と伝え、目をかけていた。
元々円四郎は「攘夷」はできないと考え、主君・慶喜に開国を説いていたのである。
慶喜と円四郎は、今すぐに外国人を日本から閉め出すのではなく、日本の自主独立を守るという形での「攘夷」を考えていたという。
上洛
文久3年(1863年)慶喜の上洛に円四郎は一橋家用人として同行した。慶喜から厚い信頼を得た円四郎は、翌元治元年(1864年)には側用人番頭を兼務し、一橋家の家老並となる。
その頃、栄一と喜作の従兄・尾高長七郎が通行人を殺害して捕らえられ、栄一の書いた倒幕や上洛を促す手紙が見つかってしまう。
上京していた栄一と喜作の絶望的な危機の中、円四郎は栄一と喜作に「一橋家に仕官しなさい」と誘った。一晩中考えた栄一と喜作は、なんと慶喜との謁見を条件に一橋家の家臣となることを承諾する。
円四郎は「前例のないこと」としたが、栄一は「農民を家臣にすることも前例がない」とし、円四郎は慶喜と栄一との謁見を実現させた。
慶喜の宿で謁見した栄一は「幕府が潰れるのを取り繕うようでは一橋家のお家も潰れる。幕府を潰すことが徳川家の中興となるのだ」と思いの丈を慶喜に語った。
慶喜はただ「ふむふむ」と聞いているだけで、何も言わなかったという。
結局栄一は、慶喜と円四郎の「今は外国人を閉め出すのではなく、国力を高めて日本の独立を守る」という考えを受け入れた。
その後、栄一と喜作は一橋家の領国を巡って農兵500人ほどを集め、栄一は持ち前の商売の才覚で播磨の木綿を買い上げて、特産物とし一橋家の財政を強化した。
暗殺
こうして攘夷派の活動家だった栄一を取り込んだ円四郎だったが、全国各地から京都に集まって来た攘夷派の志士たちの中には過激な者たちも数多くいた。
尊王攘夷を誰よりも早く掲げた水戸藩の徳川斉昭の息子でありながら、「外国人を襲う、外国船を打ち払う」ということをしない慶喜や円四郎の態度は、過激な志士たちからは「手ぬるい」と思われていた。
円四郎は元治元年(1864年)6月2日に慶喜の請願により太夫となり、近江守に叙任される。
しかし、その約2週間後の6月14日に「慶喜が行動を起こさないのは、側近の円四郎が悪い考え方を吹き込んで、そそのかしているからに違いない」と、過激な水戸藩の攘夷志士らに勘繰られ、円四郎は水戸藩士の江端広光・林忠五郎らによって斬りつけられて暗殺されてしまった。
享年43であった。
おわりに
平岡円四郎のことを渋沢栄一は「一を聞いて十を知る能力があり、あまりに前途が見えすぎて先回りばかりしてしまったから、他人に嫌われて非業の最期を遂げてしまった」と評している。
幕府の学問所「昌平黌」きっての秀才と呼ばれた円四郎は、かなりの切れ者だったのだろう。
円四郎は一橋慶喜の才覚に惚れ込んで将軍にしようとしたが、慶喜が将軍になったのは円四郎の暗殺から2年半後であった。
平岡円四郎がいなければ渋沢栄一と一橋慶喜は出会うこともなく、渋沢栄一が後に「日本資本主義の父」となることもなかったのである。
去年の大河ドラマ思い出しました、堤真一の円四郎は栄一に愛があり、あのべらんめえ口調も良かったですよね!