忠臣蔵とは
毎年、年末になるとTVドラマの時代劇などで放送される「忠臣蔵」。
忠臣蔵は、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉の元禄期に現実に起きた「赤穂事件」をもとに、寛延元年(1748年)8月に大坂・竹本座にて上演された人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」という創作である。
この通称「忠臣蔵」は、人形浄瑠璃・歌舞伎・講談と江戸庶民の娯楽として大ヒットした。
現在でも年末になると「忠臣蔵」や「赤穂浪士」というワードを良く耳にするほどである。
赤穂浪士の最強の剣客としては、堀部安兵衛(ほりべやすべえ)が有名である。
それに対する吉良家の剣客は、二刀を持って橋の上で奮闘した清水一学(しみずいちがく)と、女の着物を被って庭を走り抜け斬り結んだ小林平八郎(こばやしへいはちろう)が名が知れている。
しかし清水一学と小林平八郎は、吉良邸討ち入りにはいたが活躍はほとんどしておらず、実際に奮戦したのは山吉新八郎(やまよししんぱちろう)と新貝弥七郎(しんかいやしちろう)だったとも言われている。
今回は、吉良家の剣客とされた清水一学と小林平八郎、山吉新八郎、新貝弥七郎について解説する。
清水一学とは
清水一学は、吉良上野介の所領である三河国幡豆郡宮迫村(現在の愛知県西尾市吉良町)の農家の子として生まれた。
幼名は「藤作」で武芸を好み、兄・藤兵衛が吉良家の陣屋の一つである岡山陣屋に勤めていたため、幼少より剣術を習いに同陣屋に通い、二刀流だったという。
元禄5年(1692年)吉良上野介の妻・富子の目に留まり、士分に取り立てられ吉良家の家臣として召し抱えられた。
取り立てられた理由は、清水一学が上野介の亡くなった息子・三郎に似ていたためだと言われている。
元禄15年(1703年)赤穂浪士による討ち入りでは、浪士乱入と同時に上野介の身辺を護って潜ませた後に、浪士たちをそこへ近寄せまいと攪乱妨害をして引きつけ、赤穂浪士一の剣客・堀部安兵衛と一騎打ちとなり斬られた、というのが通説である。
しかし上杉家の資料『大河内文書』では、清水一学は「少しだけ戦って台所で討ち取られた」という記述がある。
『大河内文書』は上杉家編纂であり、元は上杉家で吉良家へ養子入りした上杉春千代の活躍を引き立たせるために、清水一学が陥れられた可能性もある。
しかし他の史料でも台所で討ち取られたという記述があり、本当に活躍したかはどうかは疑わしさが残る形となっている。
小林平八郎とは
小林平八郎は、元は米沢藩・上杉家の家臣で上野介に嫁いだ妻・富子もしくは上野介に養子入りした吉良義周の付き人として吉良家の家臣となったという。
※ただ、最初から吉良家の家臣で吉良家では最上の150石取りだったという説もある。
赤穂浪士による討ち入りでは、女物の打ち掛けを被って浪士らと華々しい立ち回りを演じ、清水一学と共に最も活躍した剣客として描かれている。
しかし前述した『大河原文書』では、逃げようとした小林平八郎が浪士に捕らえられ「上野介はどこか?」と聞かれ「下々の者なので知らない」と答えるも、「下々が絹の衣服を着ているはずがない」と言われ首を落とされたという。ただこの史料も清水一学同様に陥れられた記述の可能性もある。
※一説には小林平八郎は槍を持って激しく戦い上野介をよく守ったが、大勢の浪士と戦って遂に討ち取られたという説もある。
また小林平八郎には娘がいて、その娘が鏡師・中島伊勢に嫁ぎ、その子が葛飾北斎という伝説もあるが、その真相は不明である。
山吉新八郎とは
山吉新八郎は、米沢藩士・山吉盛俊の次男として生まれ、元禄5年(1692年)吉良家の養子・吉良義周付きの小姓を命じられ江戸吉良邸に入り、30石5人扶持を与えられた。
赤穂浪士の討ち入りでは、長屋から飛び出るといきなり浪士が槍を構えていたので部屋に戻り、脇差を取って戦闘に参加し3人を相手に戦った。
1人を池に叩き落とし、また1人を縁側に斬り伏せたが、後ろから槍で突かれ、別の1人に鬢先より口脇まで斬られ一度倒れた。
しばらくして再起し、義周の下へ走るが主君(上野介)はおらず、奥を探そうとすると、2人の浪士と出会い、再び斬られて倒れるも何とか一命を取り留めた。
その際に顔に大きな傷を負ったため、傷を隠すために髭を蓄えることを特別に許されていたという。
吉良家が改易され、義周が諏訪藩お預かりとなると高島城へ入り、義周が亡くなるまで仕えたという。
その後、米沢藩に戻り再び上杉家に仕官したという。
※山吉新八郎が浄瑠璃や歌舞伎・講談でなぜか清水一学にされたとも言われている。
新貝弥七郎とは
新貝弥七郎は、元々は米沢藩士で元禄5年(1692年)吉良家の養子・吉良義周付きの小姓を命じられ山吉新八郎と共に江戸吉良邸に入った。
赤穂浪士の討ち入りでは、新貝弥七郎は玄関で堀部安兵衛に槍で突かれて死んでいる。
清水一学と堀部安兵衛の一騎打ちは、もしかして新貝弥七郎が堀部安兵衛に殺されたことから来ているのかもしれない。
おわりに
吉良邸にいた2人の剣客・清水一学と小林平八郎の活躍は『大河原文書』ではまったくの創作で、清水一学は台所に隠れ、小林平八郎は嘘をついてまで命乞いをしようとしたことが記述されている。
吉良邸で大活躍したのは山吉新八郎だけで、大怪我を負いながらも戦い続け、何とか一命を取り留めたのは彼1人だけとなっている。
しかし山吉新八郎も新貝弥七郎も上杉家ゆかりの人物であり、「大河原文書は上杉家の働きのみを評価し、吉良家家臣を貶める傾向がある」と指摘する研究家もおり、こちらもどこまで信憑性があるかは不明である。
いずれにせよ山吉新八郎以外は亡くなっており。腕の立つ浪士たち相手に勇気を出して戦ったことは事実であろう。
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