江戸時代といえば鎖国の印象が強いが、幕末にペリーが浦賀に来航してから日本の外交事情は一変した。
初代駐日総領事・ハリスに、イギリス・フランスが攻めてくると脅された幕府は、不平等条約として有名な日米修好通商条約を締結することとなった。
そして幕府は、この条約に対する確認・同意を示す批准書を交換するために、アメリカに「万延元年遣米使節団」を送ることとなったのである。
前回では具体的に誰が使節団に選ばれ、どのように出航したかまでを紹介した。
今回はいよいよ旅路である。
目次
過酷な航海
安政7年・万延元年(1860年)1月22日、ポーハタン号に乗り込んだ77人のサムライ使節団は横浜港から出港し、サンフランシスコを目指した。
記録係の玉蟲左太夫(たまむしさだゆう)は
「蒸気が焔々と上り、船の早いことといったらまるで矢のようだ。(中略)瞬きをして息をしている間に千変万化、誰もよく景色などを眺めている暇もないほどだ」
と綴っている。
しかし、その興奮はすぐに恐怖へと変わった。日本を出港してすぐに暴風雨に襲われたのである。
玉蟲はこの暴風雨についてこう記している。
「1月23日午後、西北の風烈かつ暴風雨で、波涛は天を蹴るが如く船上に飛び込み、皆大騒ぎ、夜になってもなお止まず、波涛の音が耳に響いて、とても眠れるものではない。我々70人余りは皆魂を失い、1人として声を出す者もなく、病人同然だ。(中略)今にも船が沈んで溺れ死ぬのかとさえ思えた」
暴風雨が1週間ほど続いたことで、ポーハタン号は燃料の石炭を大量に消費してしまった。
そしてその補給のために、予定していなかったサンドウィッチ諸島(現在のハワイ諸島)に寄港することになった。
楽園ハワイ
2月13日、ホノルル港に到着、使節団は国王・カメハメハ4世と王妃・エマに謁見した。
その時の様子を副使の村垣は
「ご亭主はたすきがけなり おくさんは大はだめぎて 珍客に逢う」
と歌に詠んでいる。
ポーハタン号は故障してしまい、修理のためにホノルルに2週間滞在することになった。
玉蟲はホノルルの町に出て書店を探そうと、現地人に身振り手振りで本を表現したが、案内されたのは洗濯屋だったという。
目的地が違ったので、もう一度本を表現すると今度は写真館に案内された。
玉蟲は折角だからと写真を撮ってもらったが、その写真は驚くような素晴らしい出来栄えであったという。
その後、何とか書店に着いたのだが、驚くほど多くの本があった。
当然書いてあることは読めなかったが、本の値段が日本の数倍もしたのでびっくりしたという。
それから印刷所やガス灯の製造工場などを見学し、現地の住民たちとも積極的に交流しながら見識を高めていった。
出港後、すぐに暴風雨に遭遇した使節団にとってハワイはまさに楽園であった。
2月26日、使節団一行はホノルルを出港し、サンフランシスコを目指した。
勝と福沢が対立
一方、護衛艦として一緒に派遣された咸臨丸の方は、ポーハタン号よりも9日前に品川沖を出港していたのだが、その航海中に艦長の勝麟太郎(勝海舟)と福沢諭吉が対立し、険悪になったという。
咸臨丸もポーハタン号と同様にひどい暴風雨によって、日本人乗組員の多くが船酔いと疲れで疲弊していた。
そのストレスもあってか、船上でいらだちをぶつけていた男が艦長の勝麟太郎だった。
太平洋の真ん中で「俺は日本に帰るから船から降ろせ!咸臨丸の待遇が不満だ!」などと癇癪をおこし司令官の木村に当たり散らすなど、他の人たちを困らせていたという。
木村の従者だった福沢諭吉は、勝の傲慢で横柄な態度に「何と横柄で嫌な男だ。艦長のくせにろくに指揮も執らない!まったく何様のつもりだ!」と激怒した。
勝は海軍の知識に長けていたので艦長に選ばれたのだが、船酔いが激しかったようで、航海中は艦長室に閉じこもっていることが多かったという。
船の指揮もろくに執らず、上司である木村に横柄な振る舞いをする勝に、木村の従者だった福沢は嫌気が差し、以降2人は対立するようになった。
2人の間に生じた軋轢は帰国してからも続き、福沢は勝の行動を度々批判している。
サンフランシスコに到着
激しい嵐に遭遇した咸臨丸は、当初の計画通りサンドウィッチ諸島に寄港しなかったので、ポーハタン号よりも約2週間も先にサンフランシスコに到着していた。
そして嵐で修理が必要となったので、サンフランシスコから40kmほど離れたメーア島海軍基地に向かった。
一方、ポーハタン号は咸臨丸に遅れること約2週間後の3月8日に、サンフランシスコに到着した。
各国の船や軍艦が祝砲で歓迎する中、使節団一行は目の前に広がる街並みに釘付けになったという。
副使の村垣は日記に
「波止場には男女群集して賑やかなる街市なり、ハワイよりは大いに勝りて、家屋も四階五階造にして美麗にみゆ」
と綴っている。
当時のサンフランシスコは、ゴールドラッシュによって人口が急増していた。使節団が到着した頃は、約5万6,000人が暮らす大きな街に成長し、貿易港として繁栄していた。
使節団一行がポーハタン号を降りる際、太平洋の荒波を共に超えてきたアメリカ人乗組員は、日本人の常に礼節ある態度に少なからず感銘を受けており、「皆様の思い出は立派な紳士として、長らく私たちの心に尊敬の念を持って残るでしょう」と語ったという。
咸臨丸は修理に時間がかかったが、使節団がアメリカに無事到着したことで任務を終え、修理終了後にサンドウィッチ諸島を経由して日本に帰ることになった。
その際、アメリカ側から咸臨丸の修理費はいらないと言われたが、司令官の木村が「それでは義理が立たない」として2万5,000両(現在の約25億円)を、サンフランシスコの大火で消防士の夫を失った女性たちの組織団体に寄付するという名目で渡した。
日本人の義理堅さは大いに讃えられたという。
サムライ、蒸気機関車に乗る
咸臨丸と別れた使節団は、ポーハタン号でサンフランシスコを出港しパナマに到着する。
そこからパナマ鉄道会社が特別に用意した蒸気機関車に乗って、アスピンウォールへと向かった。
使節団一行は、蒸気機関車を見るのも乗るのも当然初めてだった。
副使の村垣は
「雲に浮かぶ 仙人もかく いかづちの 車は知らじ 岡越の道」
という歌を詠んでいる。
アスピンウォール港に到着した使節団一行を待っていたのは、ポーハタン号よりも一回りも大きなスクリュー式の最新型軍艦・ロアノーク号であった。
使節団一行は、アメリカの桁違いの文明にただただ驚くばかりだったろう。
こうしてサムライ使節団は、ロアノーク号で条約の批准書交換の地である首都・ワシントンを目指したのである。
大歓迎のワシントン
閏3月25日、使節団はついに首都・ワシントンに到着したが、その歓迎振りに皆驚いたという。
祝砲が17発も撃たれ、船着場には日本からやって来た使節団を一目見ようと、見物客が5,000人も押しかけていた。
女性はハンカチを、男性は帽子を振って歓声を上げていた。
日の丸と星条旗が掲げられ、使節団一行を見るために建物の窓やバルコニーにも人が溢れていたという。
これはワシントン始まって以来の賑わいで、使節団をもてなすためにアメリカ政府は5万ドル(現在の約1億5,000万円)の予算を割り当てたとされている。
日本からの使節団訪問は、アメリカ政府にしても一大行事であったのだ。
なぜアメリカは国を挙げて日本の使節団を歓迎したのか?
それは長く鎖国をしていた日本が開国し、通商条約を結ぶためにはるばる来てくれたこともあったが、西洋文化の偉大さを日本人に認識させることで「アメリカと結ぶと繁栄できる」というアピール目的もあったと思われる。
これから貿易を始める国との新たな道が、間違っていないということを知らしめるためでもあったのだ。
アメリカは日本を開国に導いた指導的立場を維持すると共に友好関係を築き、これからの日本との貿易で利益を得ようとした。
そのためにはアメリカ政府にとって5万ドルは安いものだったのかもしれない。
アメリカは、実は送迎費用・滞在費・船の修理費まで負担していた。
ワシントン市とフィラデルフィア市はそれぞれ1万ドル(当時の約3,000万円)を用意していたが、実際には当初の費用の10倍以上の総額20万ドル(約6億円)もかかったとされている。
なんと当時の国の予算の4倍ほどもかけていた。
使節団が宿泊したホテルは、アメリカで一番豪華と言われたウィラードホテルで、3人に1部屋のスイートルームがあてがわれた。
使節団一行がその豪華さに驚愕したことは言うまでもないだろう。
西洋の暮らしを知らない使節団一行は、ホテルの部屋にあった居間の椅子には座らずに床に座ったという。
椅子やベッドなどというものを知らなかった使節団一行は、ホテルの家具をほとんど使いこなすことができなかったそうである。
慣れない食事
サムライ使節団は、アメリカのホテルで出される食事にも慣れなかった。フォークやナイフを使った食事のマナーなどは当然知らないために我流で食べていた。
ホテルでは日本人のためにお米が用意されたが、当然満足する食事は出てこなかった。
食事の際は、塩・醤油・辛子・胡椒などで適当に味をつけて食べていたが、使節団は何故か「シャンパン」だけは好んでよく飲んでいたという。
アメリカ大統領と謁見
万延元年(1860年)3月27日、使節団の幹部、正使・副使・目付は通詞(通訳)たちを連れて、第15代・ブキャナン大統領のもとに公式に表敬訪問し、国書を奉呈するためにホワイトハウスに向かった。
使節団一行は晴れの式典とあって、古式に乗っ取り狩衣・布衣・烏帽子姿で、4頭立ての馬車に乗り、槍持ちを含めた供を従えて向かった。
一行を見ようと、沿道や各家の窓や屋根の上にまで数千人の群衆が連なり、大騒ぎになった。
大統領が日本の将軍や大名に比べて、想像していたよりも普通の家に住んでいることと、ブキャナン大統領が普通の黒羅沙の洋服で気軽に握手を求めたために、3人は拍子抜けしたと共に、身分や上下関係など文化の違いにとても驚いたという。
正使の新見は「将軍が日米修好通商条約締結を喜んでいる。また渡米にあたり米軍艦派遣の好意に感謝している。」と伝えた。
すると大統領は歓迎の意を表し、記念として将軍と正使の新見に金時計を贈った。
この精巧な時計は、日本にアメリカの製造技術の高さを示す目的もあったという。
そしていよいよ、サムライ使節団が渡米した最大の目的を果たす「批准書の交換」の日を迎えることになった。
アメリカの国務省において、正使の新見とアメリカの国務長官・キャス(ルイス・カス)との間で「日米修好通商条約の批准書交換」が行われたが、この批准書の交換は何の儀礼もなく、極めて事務的に行われたという。
国務長官のキャスと、日本の3人の幹部の署名を交換しただけであった。
これには3人の幹部たちも肩透かしをくらったような感覚であったという。
続々とやって来る来客
重大な任務を終えた使節団一行は、ようやく一息つけるタイミングだったが、ワシントン在住の役人たちが妻子を連れて次から次へと面会に来るようになった。
その数は日毎に増え、なんと毎日数百人にもなったという。
一方、使節団が宿泊しているウィラードホテルでは、清掃員や給仕など日常世話になっている人たちに日本から持って来た品々を渡していた。
それは扇子や錦絵、子どもには玩具などだったが、いつからか日本からの品々を持っていないと恥ずかしいという「日本ブーム」が起きたという。
そのせいか、何か欲しいとますます人がやって来てしまうのだ。
このことを玉蟲は
「今日も同じくアメリカ人が旅館に来ることは一刻も絶えず雑踏している。私の部屋はアメリカ人がよく出入りする部屋で、毎日数種類の品物を持って来ては交換しようと求めてくる。紙切れ一枚を得ようとして骨董品を持ってくる者までおり笑ってしまう」
と日記に書いている。
特に人気だったのは毛筆で書いた「花押が入った紙」で、いわば日本人の名刺のようなものであったという。
そして、使節団一行はワシントンにある海軍造船所や議事堂、スミソニアン博物館、天文台、病院、刑務所などを視察した。
3週間後、使節団はワシントンを出発し、汽車に乗ってフィラデルフィアへと向う。
次回は、ニューヨークに到着しアイドル級の人気となったサムライたちのエピソードを紹介する。
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