保科正之とは
保科正之(ほしなまさゆき)は、2代将軍・秀忠の庶子で3代将軍・家光の異母弟である。しかし秀忠は正室・お江の嫉妬を恐れて出生を隠し、正之は秘密裏に保科家で育てられた。
後に家光が正之の存在と境遇を知ると、その才を大いに認めて会津藩23万石の藩主とした。
正之は徳川宗家(家光と家綱)のもとで幕閣たちと共にその治世を支え、会津藩主として「名君」と呼ばれるようになる。
今回は保科正之の逸話について紹介したい。
家綱の後見として
3代将軍に就任した家光は、謹直で有能な正之をことのほか可愛がったという。
この頃、幕閣には土井利勝・酒井忠勝・松平信綱・堀田正盛など有能な人材が揃っていた。
秀忠の没後、家光は正之を徳川家一門の中でも特に信頼しており、死の床においても正之に「徳川宗家を頼む、家綱を頼む」と家綱の後見を頼んだという。
慶安4年(1651年)家光が亡くなった翌日、大老の酒井忠勝は諸大名を江戸城に集め「公方様(家光)が他界したけれども、大納言(家綱)様が家督を継ぐ、いずれも安堵あるべし、もし天下を望む者がいればこの場で出てこい!」と言い放った。
次に、正之と越後藩主の松平光通が前に出て「万一幼君であることをこれ幸いに怪しい動きをする者があれば我々に告げよ。即座に踏み潰し御代始めのご祝儀にしてくれよう」と釘を刺した。
諸大名たちは震え上がり、その場に平伏したという。
幕政政策
家光の没後、家綱の幕閣には酒井忠勝・松平信綱・阿部忠秋・井伊直孝らがいたが、後見を任された正之も幕閣として若い家綱の治世を支えた。
慶安の変(由井正雪の乱)鎮圧後、江戸に集中している浪人問題について議論が行われた。
松平信綱や酒井忠勝らは「浪人の江戸追放」を主張したが、阿部忠秋は「それでは根本的な対策にはならない」と反対した。
そこで正之は具体的な対策として「大名の末期養子の禁」の規制緩和を提案し、これを実行に移した。
末期養子とは、後継を定めていない当主が急病など不慮の事故などで死に瀕した時に、滑り込みで養子を取り、その者に跡を継がせるというもので、今まで幕府はこれを原則認めていなかった。
というのも末期養子は当主の意思を確認することが困難であり、家臣が気に入らない当主を暗殺し、自分の意のままになる人物を新たな主君に据える恐れがあったからだ。
しかし家光までの幕府は大名を取り潰すための口実として、実はこれを利用していた。
大名の取り潰しや改易が浪人の増加につながっていることを理解していた正之は、この規制を緩和することで浪人を減らす根本的な対策とした。
すでに会津藩で実施していた殉死を禁止する制度も正之の発案であり、殉死の禁止も国法として定められた。
明暦の大火
家綱の治世で最大の危機とされたのが「明暦の大火」である。
明暦3年(1657年)1月18日から20日までの3日間に江戸の町の6割を焼き、約10万人以上もの死者が出たという。
江戸は壊滅状態に陥り、3代・家光が建造した江戸城の天守も焼失してしまった。
幕閣たちは「将軍・家綱をどこに避難させるか」と議論し、松平信綱は上野寛永寺への避難を提案、酒井忠勝と井伊直孝は江戸城の外に避難するように提案した。
この時に正之は「本丸が燃えたら西の丸に移ればよい、もし西の丸が焼けたら本丸の焼け跡に陣屋を建てればよい。将軍が火事で江戸城から逃げ出したとなれば、折角築き上げた徳川将軍の権威が地に落ちてしまう」と提案した。
議論の末に正之の案が通り、家綱は西の丸に移り江戸城に留まった。
江戸の町の被害は甚大で町の復興が急務となったが、家綱や幕閣たちにはもう一つ大きな問題があった。
それは焼失した江戸城天守の再建であった。
「将軍家の象徴である天守を優先して立て直すべき」という声が上がるが、正之は「天守はもはや無用の長物、天守の再建に充てる費用を困っている民たちのため、町の復興に使うべきである」と主張した。
正之の意見に将軍・家綱は反対しなかった。
家綱は天守よりも民衆たちの方が大切だと分かっていたのである。
火災後の幕府の対策
幕府は火災対策として、今まで江戸城の近くに集まっていた大名屋敷を城から離れた場所に移転した。
そして火事から逃げ惑う人々で混乱したことから、道の幅を拡げ、火除地として広小路を作った。
敵の侵入を防ぐために墨田川に架かる橋の数を制限していたことで、川を渡れずに焼け死んだ人が続出したため、橋の増設にも取りかかった。
さらに米蔵から備蓄米を放出して食料の配給を実施、材木や米の価格を統制し、武士・町人を問わない復興資金援助を行った。
老中首座の松平信綱は、その権限で諸大名の参勤交代の停止と早期帰国などの施策を行ない、米相場の高騰を見越して幕府の金を旗本らに時価の倍の救済金として渡した。
正之が天守の建造よりも江戸の町の復興を優先したことで、その後200年余りも続く江戸の町の基礎が築かれたのである。
名君として
正之は、会津藩主としても藩政に熱心に取り組んだ。
「社倉制」を導入して米の備蓄を行なったことで、その後の飢饉や災害の時にも会津藩では餓死者が出なかったという。
また、90歳を超えた老人には身分を問わずに終生米を支給した。
これは日本の年金制度の始まりだとも言われている。
徳川宗家への忠誠
正之は自分を引き立ててくれた家光と家綱に恩義を感じており、子孫に「会津家訓十五箇条」というものを残している。
「会津藩は将軍家を守護するために存在し、藩主がそれを裏切るようなことがあれば家臣といえどもそれにしたがってはならない」
と記されており、藩主のみならず家臣にも徳川宗家への忠誠を要求した。
子孫たちはこれを忠実に守り、幕末においても松平容保は徳川宗家を守るために奔走し、会津藩は薩長(新政府軍)にボロボロにされるまで戦った。
おわりに
実は家光と保科正之の対面は、父・秀忠が用意したものではなかった。
家光がお忍びで5人ほどの供で鷹狩りに出かけ、目黒の成就院という寺で休憩した際に、そこの住職が家光と知らずに「保科肥後守は今の将軍家の正しき御弟だというのに、わずかな領地しか貰えずに貧しい暮らしをしているそうでおいたわしい」と口を滑らせてしまったのである。
この住職の偶然の一言から、名君・保科正之は生まれたのである。
参考文献:「保科正之のすべて」ほか
もし、男好きだった家光に子供が生まれなかったら、忠長が家光に嫌われていたから正之が将軍にいやそれは絶対ないか?
しかし、秀忠お父さんひどくない。もし、鷹狩りに行かなかったら正之は小藩の藩主として生涯を閉じたかも?
偶然だが正之は良かったし、徳川宗家にも凄い人物がいて良かった。3代家光と4代・家綱で幕藩体制が確立したのは正之の存在が大きかったはず。伊達家の抑えとして会津藩主に、家光がどれほど信頼していたのかが分かる逸話でした。ありがとう、ためになりましたよ。
今の意見を聞いて今までの考えが変わりました。NHKの大河ドラマ「葵三代」で秀忠が正之を家光に弟だと紹介したのは創作だったのですね、あおドラマで私はそう思っていました。いや逆に真実を知って驚いたし、保科正之を尊敬します。
こんな偶然の境遇なのに徳川宗家を代々守れと、普通は自分の境遇を恨むか?私は2代将軍の実子だからお前ら言うこと聞けと言ってもいいのに、しかも名君ってこんな人徳者がいたのですね?本人は秀忠の庶子だと知らずに生きてきたと思えば涙がでます。
いつも思うのですが、「しかし」って書いたら基本的に日本語は「、」を打つのが常識なのでは?、草の実堂さんはいつも「、」をはぶいている気がするのは、私だけ、たまに作者の意向通りを「、」打ってる時があるし、日本語としてどうやのかな?私はもと公務員で公文書はかならずしかし、を打てと先輩に習ったから気になります。
「、」は掲載する草の実堂さんのルールでいいのでは?「、」が多いと読みづらい場合もあるし、ここは「、」だろと思う時もしかし、私もしかしの後は「、」っと習った気がします。
文脈によって変えてますね。
例えば次が漢字だった場合は「、」を省いたり、次の文で「・」などが近くにあった時などは、視覚的に途切れ途切れが多くなるので「、」を省いたりしています。
それと文のリズムやテンポなども考慮しています。
視覚的な部分とリズム的な部分でアレンジしています。
好みがありますので、人それぞれかと思いますがなるべく「、」はつけますね。