見世物の女相撲
女相撲とは、女性の力士による見世物の相撲である。
延享元年(1744)頃に両国で初興行が行われたとされているが、それ以前から存在したともいわれている。
女性同士で真剣な相撲の取り組みがされ、女力士は女髷を結い上半身は裸の褌(まわし)姿であった。
日本史上初めての女相撲は「日本書紀」巻第十四・雄略天皇に記されており、雄略天皇が采女(女官)に服を脱いだ褌姿で相撲を取らせたというのが最初の記録である。
明和年間(1764~1772)の中頃以降には上方でも女相撲が行われた。また盲人の男性と目の見える女性との取り組み(座頭相撲)も行われ、江戸と上方で興行が行われた。座頭相撲には盲人同士によるものと盲人と女性によるものとがあった。
この盲人と女性の相撲がきっかけで女相撲に人気が出たのだった。座頭相撲は、盲人が土俵上で手探りで取り組む様が当時の人々に喜ばれたという。盲人と女性の相撲が人気になると座頭相撲の単独興行は行われなくなった。
しかし、後にこの男女の相撲対決は、「盲人を卑しめるもの」「男女の取り組みが卑猥なもの」ということで禁止された。ある取り組みでは、好色家が興行主と世話人に金銭を渡し、1人の女力士を複数の座頭力士に襲わせるということがあったという。
この取り組みの真偽は定かでないが、盲人と女性の相撲が禁止されると女性同士の相撲も姿を消したのだった。
安永年間(1772~1781)以降から女相撲の興行は見られなくなるが、黄表紙などの作品の中には女相撲が見られ、寛政年間(1789~1801)には、盲人と女性の相撲に代わり羊と女性の相撲が興行され人気であったという。
力強い女性達
この時代の女相撲の力士は人並み以上に体が大きく力の強い女性達で、出自は様々だが多くは私娼だったといわれている。
娼婦としては極端に体が大きい彼女達は、女力士に職替えすることでその特徴を活かしたのだった。
このような女性たちは力士だけではなく、重いものを軽々と持ち上げる見世物を行い「女力持ち」「大女芸人」と呼ばれた。
彼女たちの見世物も女相撲と並び、江戸時代の庶民の人気の的であった。
大力女・「柳川ともよ」は、安永5年(1776)、江戸の境町の楽屋新道で大八車に米俵を5俵乗せたものを車ごと持ち上げるという見世物で大評判を得た。
他にも腹の上に乗せた臼で餅をつかせる芸や、基盤を片手に持ち、ろうそくの火をあおいで消すという芸を持っていた。彼女は越前高田出身の私娼であったという。
彼女を抱えた私娼家・柳屋の主人は、「女力持ちの芸を境町の見世物小屋で3ヶ月間行えば、年季を棒引きにして実家に帰してやる」と約束していた。
しかし、彼女は期間が過ぎても故郷に戻らずその芸を持って江戸中を歩いた。その後は全国でも有名になり、風来山人著の「力婦伝」にも記されている。
また「淀滝」と呼ばれた女力持ちは品川の女郎であり、釣鐘を持ち上げる芸と、五斗詰めの米俵の先に筆を結びつけ、それで字を書く芸をみせた。
彼女も江戸の人気者の1人となり、何人かの黄表紙本作家が記録に残している。
女相撲の変化
文政9年(1826)両国において、禁止されていた盲人と女性の相撲が復活している。
この時の女力士の四股名は「玉の越」「乳ヶ張」「色気取」などの珍名があり、座頭力士の四股名では「佐栗手」「杖の音」「もみおろし」などがあった。
嘉永元年(1848)には、名古屋上がりの女相撲の一団が、大坂難波新地にて女性同士の相撲の興行を行っている。
この嘉永元年の女相撲では、女力士の髷が従来の島田や丸髷ではなく男髷に変化した。また相撲の興行に手踊りといった芸能的な面が加わった。華美なまわしのしめこみと、美しい声での甚九節手踊りが観客の心をとらえて人気になったという。
隆盛だった女相撲の巡業も明治時代に入ると、近代化を図る政府によって他の興行物と同じく禁令の対象になった。
明治5年(1872)には盲人と女性の相撲が差し止められ、翌年の明治6年には見世物の女相撲が禁止された。しかし、それにも関わらず女相撲の興行は続けられていたという。
明治20年(1887)、夫と子供を故郷に置いて興行団に加わっていた1人の女力士が、拘引されるという事件が起きた。明治23年(1890)にも、両国の回向院境内で女相撲の興行が行われたが、その後間もなく禁止されたのだった。
しかし、女相撲は何度禁止されても興行団は存在していた。山形県で創業された「石山興行」「高玉興行」は全国各地だけでなく、海外でも巡業を行う程であった。他にも興行団が20以上あり、それらのほとんどが山形地方で創業されたものだった。
明治以降、女力士の格好はそれまでの上半身裸の姿から、ぴったりした肌色の襦袢と股引き姿に変わった。
興行の内容も舞踊や曲芸が主となっていき、江戸時代の女力持が行っていた「腹の上での餅つき」などの演目も行われたという。
四股名も先進的な「電信はま」「蒸気船はや」といった名に変化していった。
女大関 遠藤志げの
昭和初期、「若緑」という女相撲の力士が活躍し人気を集めた。彼女の本名は「遠藤志げの」といい、山形県東置賜郡宮内町(現・南陽市宮内)で生まれた。
彼女の実家は、遠藤商店という食品や雑貨を扱う店を営んでいた。昭和9年(1934)、志げのが17歳の時に、石山興行による女相撲の興行が宮内町で行われた。
興行期間中、石山興行は食料などを遠藤商店から調達していたため、女相撲に興味津々であった志げのが配達をかって出たのだった。
なんと彼女は米俵を軽々と担いで運び、それを見た女力士たちを驚かせたという。
その後、石山興行の看板大関・玉椿の一番を見て感動した志げのは、友人に協力してもらい、家出をして石山興行の女相撲に入門した。
そして「若緑」という四股名を与えられ、入門からたった3年で女相撲最高位の大関となり人気を誇ったという。
しかし、昭和16年(1941)の太平洋戦争の影響で興行が行えなくなり、石山興行は解散し、その後若緑も引退した。
戦争が終わると、彼女は愛媛県の北条町に住むようになり、料理屋・若みどりを開いた。その後、松山に来ていた高砂親方(以前は前田山関)と再開した。2人は互いに同時期に男相撲、女相撲で活躍しており親しい仲だったのである。
昭和32年(1957)、北条港の近くで行われた高砂一門の巡業で、若緑は女人禁制の土俵の上で挨拶をすることになった。
当初、若緑は親方から挨拶を頼まれた際、「皇后陛下でも上がれない大相撲の土俵には、恐れ多くて上がれない」と拒んでいた。しかし親方は、そんな考え方は時代遅れだと諭し、若緑に強く頼み込んだのだった。
挨拶の当日、若緑は着物姿で土俵上から挨拶を行った。観客からは「いよ、若緑、日本一!」という掛け声が上がる一方で、前代未聞の挨拶にざわめく人々がいた。
そこで高砂親方は観客に向かって、若緑に挨拶を頼んだのは自分であることや、協会で問題になったら全責任を取るといった説明をした。そして若緑に温かい応援をしてほしいと頼んだのである。
すると観客からは歓声が上がり、挨拶は無事に終わったのだった。
後年になって若緑は「高砂親方の好意は嬉しかったが、土俵の神様に叱られそうだから2度と男相撲の土俵には上がらない」と語っている。
女相撲は、第二次世界大戦前まで各地で巡業が行われていた。しかし、戦後は娯楽が多様になり女子プロレスも生まれ、女相撲の興行は廃れていった。
しかし、神事としての女相撲は、東北地方や九州の一部地域に祭礼行事として残っている。
参考文献 : 井田真木子 著作撰集(里山社), 女大関 若緑(朝日新聞社), 相撲の話(中央公論社)
日本人って大昔から変態だよね