仏教には「女犯」(にょぼん)という言葉があります。
日常的に聞かない言葉ですが、原則として女性との関係を断たなければならない僧侶が、戒律を破って女性と関係を持ってしまうことを指す言葉です。
一説によると原始仏教以来「女性は不浄である」と考えられていたため、僧は女性を見る・話すなどのみならず、肉体関係を持つことは戒律で禁じてられていました。
ところが江戸時代、その戒律などものともしない僧侶がいたのです。
何と60人近い女性と関係を持ち、戒律を破りまくった日潤(にちじゅん ※日動とも)というイケメン僧侶がいたのです。
そして日潤は、お江戸八百八町が大騒ぎとなったスキャンダル「延命院事件」を引き起こしました。
いったいどのような事件だったのでしょうか。
超絶イケメン僧侶に、町娘も人妻も奥女中も夢中に
一大スキャンダルの舞台となったのは、東京都荒川区にある日蓮宗の寺院・延命院(えんめいいん)です。
寺伝によると
〜江戸初期慶安元年(1648年)、後の徳川幕府第四代将軍・徳川家綱の乳母・三沢局が開基となり、七面大明神を守護する別当寺として日長により、新堀村(現在の日暮里)に開創されました。〜
とあります。
寛永17年(1640年)僧侶の日長が家綱の出生の無事を祈祷し、翌年に家綱が誕生したことを受けて建立が許され、以来幕府・御三家の奥向きから篤い尊崇・庇護をうけ大盛況となりました。
しかし元禄以降にはその勢いは衰えていったそうです。
それから150年近く経過した寛政8年(1796)頃、日潤(にちじゅん)という僧侶が住職になったことから、延命院はがらりと雰囲気が変わったのです。
というのも、その日潤は類稀なる美男子、つまり「超絶イケメン」だったうえに、心奪われるほどの美声、「超絶イケボ」だったのです。
日潤は歌舞伎役者・尾上菊五郎の息子で、子ども時代は父と共に舞台に立っていたという噂もあります。(日潤が美貌ゆえ、尾鰭が付いた嘘だと否定する説も)
ところがなぜか二十歳の頃に出家、日蓮宗中山派に入門して延命院の住職になったのです。
見た目が息を呑むほど美しいうえに、うっとりとするほどの美声だった日潤は、現代のスーパーアイドルのような存在だったのでしょう。
彼の説教や祈祷を見たい聞きたいと、足繁く延命院に通う女性ファンは日に日に増え、延命院は押せや押せやの大盛況となっていきました。
そんな日潤の噂は噂を呼び、町娘や人妻、さらには御三家・諸大名・大奥の奥女中に至るまで、身分や階級に関係なく、多くの女性が昼夜を問わず延命院に訪れるようになったそうです。
あまりに乱れた延命院に、密偵が送り込まれる
当時、江戸城大奥勤めの奥女中は基本的に外出禁止でしたが、肉親の病気見舞い・葬儀や、御台所や将軍生母の「代参」として寺社に参詣するのは許されていたそうです。
「信心のため」という名目を付けて、連日のように女性たちが延命院に通い詰めていることが噂となり、とうとう寺社奉行・脇坂安薫(わきさかやすただ)の耳に入ってしまいます。
若くして寺社奉行に抜擢され「江戸の智恵頭」とも呼ばれていた切れ者の脇坂安薫は、「延命院で一体何が起きているのか?」と不審に思い、家臣の妹に奥女中の扮装をさせて「内部を探ってくるように」と命じ、密偵として延命院に送り込みました。
彼女は身を挺して日潤に近づき何回か関係を持ち、徐々に延命院の内情を探っていったのです。
そして、寺に訪れる奥女中・旗本の夫人などを雑用係の僧が手引きをしていること、お堂内部に「隠し部屋」や「抜け道」などが存在すること、訪れる女性たちはみな日潤と関係を結んでいたことを突き止め、証拠となる「艶書(えんしょ)※恋文」なども確保することに成功しました。
延命院で繰り広げられているあまりに乱れた狂宴と、呆れるほどの日潤の「女犯」ぶりに、脇坂安薫は摘発に乗り出します。
そして、享和3年(1803)5月22日の早朝、「通夜参籠」の最中に、脇坂安薫ほか多数の部下たちが踏み込みました。
そのとき捕えられたのは、日潤はもちろんのこと、加担していた坊主たち、他数十名の女性たちでした。
日潤が関係を持った女性は59人!
寺社奉行所へ連行された日潤には、長時間に渡る尋問が行われました。
その結果、日潤は「下は10代から上は60代まで、大奥の奥女中や商家の娘など59人もの女性と関係を持った」と白状したのでした。中には妊娠したので薬を与えて堕胎させた女性もいたそうです。
当時、「女犯」への罰は「島流し」が一般的でした。
ところが日潤の場合はあまりに多数の女性との関係、隠し部屋を設けるなどの用意周到さ、身分ある女性との密通、堕胎など、いくつもの悪事を重ねていたために「死罪」を言い渡されたのです。(大奥の奥女中が多数関係していたために、この醜聞が広まる前に死罪にしたという説も)
日潤と関係が判明した大奥や大名家の女中たちは、罪を不問にされた者もいましたが、追放されて武家奉公禁止、一生座敷牢に幽閉、無期限自宅謹慎、夫に知られ自害など……その末路はさまざまでした。
延々と語り継がれ、作品となる
大奥も巻き込んだ一大スキャンダル「延命寺事件」は、江戸中で大騒ぎとなり、『観延政命談(かんえんせいめいだん)』として小説にもなりました。
元幕府奥右筆に侍奉公をしていた品田群太が、この一連の騒動を16冊の書物にし、貸本屋に売却・回覧していたのですが、文化2年(1805)に発覚し、本人や関係者は罰せられてしまったそうです。
大奥女中と日潤の前代未聞のスキャンダルが、お上の忌諱に触れた……ということなのでしょうか。
また明治11年(1878)には、河竹黙阿弥が歌舞伎『日月星享和政談義(じつげつせいきょうわせいだん)』として舞台化、5代目尾上菊五郎が主演を務めました。
昭和に入っても、この日潤のスキャンダルは語り継がれ続け、有名俳優が演じる映画になったり小説で描かれたり、多くの作品が残っています。
さまざまなスキャンダルが渦巻く現代の視点から見ても、この出来事は今だに驚愕する事件でしょう。
参考資料
▪︎日本仏教における僧と稚児の男色 国際日本文化研究センター
▪︎Imidas 時代劇用語指南「寺社奉行」
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