八百万の神がいるというくらい、日本人は万物に神が宿ると考えてきた。
それは自然の現象や、自然そのものにしても例外ではなく、山岳信仰もそのひとつである。
とりわけ日本一の高さを誇る富士山に対しての信仰は今でも残っており、多くの人々がご来光を拝もうとするのもそのひとつだ。
富士信仰
活火山である富士山は、記録に残るだけでも平安時代に編纂された『続日本記』をはじめ、『竹取物語』『更級日記』などに活動期だったことが記されている。宝永4年(1707年)には、もっとも新しい「宝永大噴火」が起こり、富士山の中腹から大量の火山灰が関東一円に降り注いでいだ。噴火は約2週間にもおよび、爆発の規模から噴煙は高さ20kmにまで達したと推測される。
こうした噴火は歴史時代だけで3回起きているが、当時の人々は噴火を富士の怒りと考え、恐れると同時に、活動が沈静化すると、その霊力を得ようと修験者(しゅげんしゃ)などが山に足を踏み入れた。
修験者とは、山岳信仰と密教や中国渡来の道教が融合した「神仏習合思想」のひとつであり、神々は仏の化身だという考えである。
平安時代には登頂していた
富士山で修行を行った修験者のなかでも有名なのが「末代上人(まつだいしょうにん)」だ。
平安時代の僧で、数百回も登山をしたところから「富士上人」とも呼ばれた。幼いころから山に入っては苦行を重ねて、富士山だけでなく、各地の霊山を巡歴したという。伊豆や箱根を拠点にしていたが、長承元年(1132年)には富士山の登頂に成功したとの記録が『浅間大菩薩縁起』にあるが、そこにはさらに昔に登頂を成し遂げた修験者の遺品を見つけたという。
このことからも人数こそ少ないが、富士の登頂に成功した僧は平安時代後期にはすでにいたということが窺える。現代ですら苛酷な富士登山を約900年前の人間が行ったというのは、まさに信仰心がなくてはできないことだ。
やがて末代上人は、村山(富士宮市)に寺を建立、自らは即身仏となって「大棟梁権現」の名で富士の守護神となった。
富士講
先人たちはもっぱら修行のために富士へ足を運んだが、登山者が増えたことで富士への理解も深くなり、江戸時代初期になると、富士信仰は庶民へと拡大してゆく。まだ修験者の引率がなければ登ることは困難だったが、それでも富士詣でのための宿坊が整備されるなど、より登りやすい環境となっていった。
それまでは修験者たちの修行の場であった富士山は庶民にも開かれ、富士講へと変化する。信仰の対象である富士山はただ拝むものではなく、自ら登って拝むものという考えから、多くの庶民が富士登山への思いを募らせた。しかし、江戸から富士の玄関口の吉田までは片道3日、登頂や帰りの時間をあわせると最短でも8日かかることになり旅費も多額になる。そこで信者から寄付を集め、代表者が皆の祈願とともに富士詣をする「講」の仕組みができた。
「江戸は広くて八百八町、講は多くて八百八講」などといわれるほどに江戸以外にも本州各地に広まったが、講そのものは資金集めの手段のことではなく、富士信仰者のことを指すことが多い。
浅間神社
【※富士山本宮浅間大社の本宮】
神格化した浅間大神を祀る神社として「浅間神社(せんげんじんじゃ)」はことに有名である。
その由緒は古く、伊勢神宮を建立した垂仁天皇(すいにんてんのう)の時代には富士山麓に祀られていたというが、現在の富士宮の地に社殿を造営したのは、平安時代の武士「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」と伝えられている。
全国に約1,300もある浅間神社の総本社が富士宮の「富士山本宮浅間大社」であり、本殿は徳川家康によって造営された。
国の重要文化財であるとともに富士信仰を構成する資産として世界文化遺産にも登録されている。浅間の語源については諸説あるが、「荒ぶる神」として信州の浅間山と一体の神として祀ったという説がある。また、民衆は富士の噴火に恐れをこめて火の神や、それを鎮めるために水の神と考えるなど、富士山の特徴をいろいろな角度から捉えていた。
本宮は富士宮だが、奥宮は富士山頂に置かれている。
頂上は誰のもの?
富士の山神を祀る浅間神社だが、この神は「コノハナノサクヤビメ」といい、『古事記』や『日本書紀』にも名前を変えて登場する女神である。
本名は葦津姫(カヤツヒメ)。天照大御神の孫、ニニギの妻である。
いつの時代からコノハナノサクヤビメが富士の化身とされるようになったかに関しては、江戸時代の儒学者、堀杏庵や林羅山による記述があるが、昭和3年発行の富士の研究 第2 『富士の歴史』に慶長19年の記録が指摘されており、現状ではこの記録が最古である。
最後に、富士山が私有地だった時代の話をしよう。
徳川家康は、関ヶ原の合戦の戦勝を記念して社殿を造営したが、それ以前から富士山そのものが徳川氏の土地だと認識されていた。慶長11年(1606)年に八合目以上を富士山本宮浅間大社に寄進したことにより、現代においても大社の土地となっている。
家康の没後も歴代将軍は、大社に金や銀など多額の寄進を行い、信仰も篤かった。
最後に
葛飾北斎の「富嶽三十六計(ふがくさんじゅうろっけい)」など、富士山は文化的にも題材として取り扱われたことが多かったが、それも一種の富士山信仰といえるだろう。例え登ることが叶わなくとも、庶民は富士山に思いを馳せたに違いない。
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