江戸時代

葛飾北斎の魅力「あと5年で本物になれた」画狂老人

穏やかな広重に対し、色鮮やかでダイナミックな北斎の浮世絵版画。しかし、彼はどこまでも貪欲であった。特定の手法や分野に縛られることなく、多彩な作品を手がけたのである。

葛飾北斎の魅力を調べてみた。
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自然を切り抜く

葛飾北斎
※北斎自画像(天保10年(1839年)頃)

北斎の創作意欲を刺激したのは、自然、つまり「形のないもの」である。
水、風、といったビジュアル化しにくいものをいかに表現するか。代表的なところでは、水の流れる様子。世界的に有名な「大波」のモチーフはもちろん、『諸国滝廻り』などからも、水の躍動感、ダイナミズムを捉えようという情熱がよく分かる。


※『西村屋版大判花鳥集 芥子』

そして、風。風景画だけではなく、時には『芥子(けし)』のような花鳥画でも、モチーフに動きをつけて見えない空気の動きを巧みに表現した。この花鳥画でも、可憐な芥子が強風に耐えるさまが印象的である。北斎の花鳥画のなかでも特に人気が高いというのも頷ける。

売り上げの広重・集客の北斎


※『諸国名橋奇覧 飛越の堺つりはし』

現在では「複製版画が売れるのは北斎より広重」といわれる。東海道五十三次などの浮世絵で有名な歌川広重である。しかし、展覧会の集客力なら断然北斎のほうが高いともいう。

2014年に上野の森美術館で開催された「ボストン美術館浮世絵名品展 北斎」は51日間で約21万人を動員している。同年の美術展入場者数では12位、個人の浮世絵展ではトップであった。

常識的で繊細な広重と違い、北斎の構図は大胆で奇抜ともいえる。部屋に飾るには物々しいが、たまに見るなら刺激的でいいということかも知れない。
型破りな構図は『富嶽三十六景』などの連作で見ることができる。『諸国名橋奇覧』は各地の橋がテーマとなっており、『飛越(ひえつ)の堺つりはし』は、曲芸のような歩き方に危うさを覚え、橋の先も谷の下も見えないためにより想像力を掻き立てられるのだ。

さらにその先へ


※富嶽百景「海上の不二」

北斎は天与の才に驕ることなく、絵を描きたいという純粋な意欲によって、貪欲にその技術を向上させたのだろう。現状に満足することなく、内外古今の画法を研究しては、躊躇することなく自分のスタイルを変えていった。
事実、その画力も老いてゆくほど驚くべき向上を見せたことだ。富嶽三十六景など北斎の代表作の多くが70歳を過ぎてから描かれている。

75歳の作品『富嶽百景』は、スケッチ画だがそこに北斎の波へのこだわりが見える。
海上の不二」ではモノトーンの波がぐっとせり上がり波頭が崩れる。さらに砕け散った波頭は鳥となって富士へと降りかかるという、現実にはあり得ないが見るものを惹き付ける新境地を開いた。


※『冨嶽三十六景』「神奈川沖浪裏」

5年ほど前の作品で、同じく大波をモチーフにした『富嶽三十六景』「神奈川沖浪裏」では、富士を中央に配し、翻弄される船との対比によって波の荒さを強調しているが、「海上の不二」ではシンプルな富士を奥に置き、あとは波の動きだけでその荒さを伝えている。無駄を削ぎ、より先鋭化しているといえるだろう。

葛飾北斎 の悟り


※82歳(数え年83歳)頃の自画像(一部)

そうした変化は北斎自身も自覚、というより求めていたものである。
なにせ、『富嶽百景』のあとがきでは、70歳以前の作品を「どれも取るに足らない」と言い切り、さらに「86歳になればもっと上手くなり、90歳で奥義を窮め、100歳となったときには神の領域に達し、110歳からは生きているかのような画を描けるはず」とまで豪語している。

当時は平均寿命が50歳にも満たなかった時代。70歳からの20年間に絵師としての本領を発揮したことは驚嘆に値する。

天才画家にありがちな浪費癖もあったようで、日常生活での金遣いにはルーズであった。だが、金で片付くなら諸事は手早く済ませ、その分の力を作品に向けたのだろう。北斎は無自覚だろうが、そうした生活が余計なストレスから彼を遠ざけ、長生きさせた一因でもあるようだ。

70代で版画を捨て、絵本と肉筆画に傾注するようになったのも、クライアントの指図に縛られたくないと思えばこそであった。

こだわりの根源


※『富士越龍図(ふじこしのりゅうず)』

数え90で亡くなる数ヶ月前には、富士を越えて龍が天に昇る『富士越龍図』を描いた。まるで噴煙の如くたなびく黒雲に導かれ、天に昇る龍。例によって幾何学的な富士山の造形は、墨絵ということもあったか、この世のものとは思えない。

北斎の頂点をなす肉筆画の傑作だ。

北斎は歳を重ねるほどに、宇宙、神、生命の根源といった超自然の概念に傾注するようになったという。写実性よりも独自の表現を追及した世界観は、確かに現世ではない景色を切り取ったかのように幻想的である。

水や風の如く、捉えがたい題材こそ絵にしたいという絵師としてのこだわりは終始あったのだ。

最後に

北斎の最大の武器は情熱であった。

絵師としえの見栄などに頓着せず、描きたいものは何でも描いた。挿絵はもちろん、幟や、封筒、菓子袋にあしらうものまであらゆる絵に挑戦したという。晩年には「画狂老人」とまで名乗ったくらいである。
改名や引越しの多さなど私生活での奇行を指摘する声も多いが、すべては最高の絵を描くための環境作りだったと思えば理解できる。全ての情熱を作品だけに傾けた人生であったのだ。

北斎は死の床にあって『あと5年あれば本当の絵師になれた』とうそぶいたというのだから。

関連記事:ジャポニズムの頂点!西洋美術に与えた葛飾北斎の影響

 

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