源義経(みなもとの よしつね)と言えば、日本史上でもトップクラスのスーパースター。
天性の才能を発揮して平氏討伐に大活躍するも、後白河法皇(ごしらかわほうおう)に取り込まれて兄・源頼朝(よりとも)と対立。
ついには京都を追われ、奥州平泉に自害して果てた……という悲劇的要素を兼ね備えることで不動の人気を誇っています。
判官贔屓(ほうがんびいき。判官は義経の官職)という言葉まで生み出した義経の人気が
「こんなところで死んでほしくない。もっと義経に活躍してほしい」
「きっと義経は生き延びて、更なる偉業を果たしたはず」
と数々の伝承を生み出します。
奥州から蝦夷(北海道)へ、そして大陸へと渡ってモンゴル帝国の祖チンギス・ハーンになったとする説は有名ですね。
その史実性はともかく、義経=チンギス・ハーン説は人々によって親しまれ、戦前には軍歌のテーマともなっています。
今回はそんな「源義経の歌」を紹介。堂々と謳い上げられた壮大なスケールを味わってみましょう。
荒海越えて 三韓や 鬼界ヶ島に 至るとも……日本に収まりきらない義経の大活躍
「源義経の歌」
埋(うも)れ木の 花咲くことの あらんとは
誰も思はぬ 世の中に
父祖のかたきに 国の賊
荒海越えて 三韓や
鬼界ヶ島(きかいがしま)に 至るとも
打亡(うちほろぼ)さねば 帰らじと
君が武勇に 敵はなく
神と呼(よば)るゝ 木曾さへも
唯(ただ)一戦に 打勝てり
鵯越の 阪落し
荒浪凌(しの)ぐ ちぬ(茅渟)の海
威勢盛りの平軍(へいぐん)も
数度の戦 皆負けて
烟(けむり)と消へぬ 壇の浦
君が功名 高きとも
無形世(あじきなきよ)を 如何にせん
吉野の雪に 踏み迷ひ
安宅の関も 越え兼ぬる
忍ぶ此身(このみ)は 此(か)くあれど
海より廣き 我が心
日本ばかりに 日は照(てら)ぬ
蝦夷(ゑぞ)樺太は 目もかけず
靺鞨(まっかつ)国も 一掴み
歴史に残る 功名は
君の威勢を 海外に
轟かしたる ためしなり※剣光外史 編『新編軍歌集』湯浅粂策、1911年3月
5・7・5に始まり7・5・7・5……と繰り返される、日本人好みの七五調で描かれるのは、義経の一代記。
一度埋もれた木に花が咲くことなど誰が思うだろうか……これは平治の乱に敗れ衰退した源氏を象徴しており、奇跡的に花を咲かせた義経の偉業を語ります。
父の仇とはとうぜん源義朝(よしとも)を討った平清盛(たいらの きよもり)、国の賊とは朝廷を牛耳って権力をほしいままにする平家一門。
これを討つため、義経はたとえ敵が朝鮮半島(三韓)や鬼界ヶ島(薩南諸島。諸説あり)にいようとこれを滅ぼし、勝つまでは帰らないと決心します(実際に行った訳ではありません)。
さて、神とも呼ばれた木曾義仲(きその よしなか)を倒した義経は鵯越の逆落とし(一ノ谷の合戦)で平家を奇襲。
更には暴風雨の吹き荒れる大阪湾(茅渟の海)を乗り越えてこれまた平家を奇襲して勝利を収めます(屋島の合戦)。
かつてあれだけ「平家に非ずんば人に非ず」と驕り、威勢の盛っていた平家一門も敗戦を重ね、ついには壇ノ浦で義経に滅ぼされてしまったのでした。
ちなみに「威勢盛り」とは「伊勢平氏」、「盛り」は「盛(清盛など平家一門の通字)」にかけられています。
かくして平家一門を滅ぼした義経ですが、後白河法皇と頼朝の政争に翻弄され、謀叛人になってしまいました。
吉野の雪に踏み迷って恋人の静御前(しずかごぜん)とはぐれ、安宅の関所でも疑いをかけられながら、這々の体でかつて保護してくれた奥州藤原氏を頼ります。
藤原泰衡(ふじわらの やすひら)の裏切りでいよいよ追い詰められた義経は、ついに日本国を脱出する覚悟を決めました。
「海より広い私の心は、もはや日本国には収まり切らない。この世界のどこへ行こうと太陽は照らしてくれる。いざ、参ろうぞ!」
……と言う訳で日本を飛び出した義経は、蝦夷や樺太(からふと)なんて目もくれず、靺鞨国(外満洲・ロシア極東地域)を征服。
そして伝説(モンゴル帝国の覇者)へ……俺たちの戦いはこれからだ!というところで物語は締めくくられます。
もし、義経=チンギス・ハーン説が本当だったら?
以上、昭和期に愛唱された軍歌「源義経の歌」でした。満蒙方面へ進出(軍事的、移民的)する士気高揚を目的に作られたプロパガンダの一つでしょう。
【源義経 略年表】
※歌に出て来たエピソードを抜粋平治元年(1159年) 誕生
寿永3年(1184年)
1月 木曾義仲を滅ぼす
2月 一ノ谷の合戦・屋島の合戦で平家を破る
寿永4年(1185年) 壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼす
文治5年(1189年)閏4月30日 奥州平泉で自害(したことに)
ちなみにチンギス・ハーン(テムジン)は大定2年(1162年)ごろの生まれと言われており、年代はほぼ同じです。
諸部族との争いを制したテムジンは太祖元年(1206年)にモンゴル帝国を興しており、義経が入れ替わった(≒テムジンを殺して、自らなりすました)のがこれより前か後かで評価は大きく変わります。
そして太祖22年(1227年)、チンギス・ハーンは天寿をまっとうしますが、もしこれが義経だとしたら享年69歳。当時の感覚であれば、もう十分長生きしたと言えるでしょう。
ただしチンギス・ハーンの所業を見ると、そのエグさ(主に残虐さ)はかつて自分を追い詰めた異母兄・頼朝公の比ではなく、ちょっと義経のイメージが損なわれてしまうかも知れません。
たとえ我が身は滅びようと、誰かを陥れたり、虐殺したりなんて義経にはして欲しくなかった……というファンもいるのではないでしょうか。
やはり「平泉では死んでいなかったが、モンゴルにまでは行っていなかった」辺りが、みんな幸せになれる?落としどころなのではないかと愚考します。
※参考文献:
- 五味文彦『源義経』岩波新書、2004年10月
- 中村文彦『義経不死伝説』PHP文庫、2012年12月
- 菱沼一憲『源義経の合戦と戦略 その伝説と虚像』角川書店、2005年4月
- 森村宗冬『義経伝説と日本人』平凡社新書、2005年2月
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