平将門とは?
平将門(たいらのまさかど)とは、いかなる人物であったのか。
将門の正確な生年は不明であるが、先祖は、桓武天皇の曾孫・高望王が平氏を授けられ、平高望(たいらのたかもち)を名乗った時から始まる。
上総(千葉県中央部)国司に就いた平高望は、当時の慣習を破り一族を引き連れ東国に下った。
高望の三男である将門の父・平良将(たいらのよしまさ)は、鎮守府将軍、即ち陸奥国(福島県、宮城県、岩手県、青森県)の軍政府長官職に就く。
将門は15・16歳頃に都に出て、公卿の藤原忠平に仕えている。
自身の出自に誇りがあった彼は、裁判官と警察官兼任の「検非違使」を望んだ。
しかし実際は私的な警護武者に過ぎず、約十年余りで都に見切りをつけ東国へ帰る。
後に親戚同志の争いが起こり、将門の名は世に知れ渡ることとなる。
935年(承平5年)2月、将門は「野本の合戦」で伯父・平国香と戦い、同年10月には叔父・平良正とも戦って共に打ち破った。
原因は何だったのか。
「将門略記」によれば「女論による不仲」という記述があり、婚姻問題だと考えられる。
他に「今昔物語集」巻25の第1には「田畑の諍いで遂に合戦に及ぶ」との記載もある。
936年(承平6年)将門は、都で検非違使庁の尋問を受けたが、朝廷は内輪もめと見なし、翌年恩赦を与えた。
しかしこの朝廷の裁きでは争いは収まらず、当初は中立的立場だった叔父の平良兼との対立が激しくなっていった。
将門の身内同士の戦いは、彼の勢力を東国に拡大させる結果となる。
940年(天慶3年)1月、将門軍は常陸(茨城県)国府軍と揉め、印綬を取り上げるという事件を起こした。
その後、なんと将門は「新皇」を名乗り、朝廷は謀反と見なす。
940年(天慶3年)ついに将門追討軍が京から出立し、将門のいとこ・平貞盛・藤原秀郷、他連合軍が将門軍と激突する。
平将門は、矢がこめかみを直撃して討死。首は平安京へ運ばれて晒し首となった。
将門の子供たちと、その子孫とは?
将門には、子供が5人いたという伝承がある。
・平良門
・平将国
・五月姫
・春姫(如春尼)
・如蔵尼
以上の子ども達のうち良門(よしかど)と五月姫(さつきひめ)は、伝説と語られる人物で、実在したかはハッキリしない。
良門は、通俗史書『前太平記』に将門の側室の子として登場する。
如蔵尼の下で成長し、後に自身が将門の子と知り、親の敵討ちを目指すも返り討ちにされるという末路が描かれている。
五月姫に至っては、妖術使いとなり反乱を企てた滝夜叉姫という創作的な人物として記述されている。
しかし茨城県つくば市東福寺付近には、滝夜叉姫の墓と伝えられている小さな塚が今も残っている。
将国は、大叔父・平良文の助けを借りて常陸国信太郡(茨城県)に逃れ、信田氏と名を変えたが、戦乱が沈静化した後の足跡は不明である。
春姫は、将門の従兄弟・平忠頼の正室になり、忠頼との間に忠常、将恒(将常)、頼尊を生んだ。
長男の忠常は千葉氏の祖、次男の将恒は秩父氏の祖となり、三男の頼尊の子孫は中村氏を称した。秩父氏、千葉氏、中村氏は各地の大族として繁栄して、後に多くの分流(相馬氏など)となり、大同族を形成した。
春姫は、父・将門が討伐された後は、下総国(千葉県北部)相馬郡岩井郷に身を潜め、尼となって一族を弔った。
彼女は女系により将門の血脈を繋ぐ役割を果たしたのである。
如蔵尼も身を隠して暮らしていたが、夫や子どもがいた記録はない。
父の三十三回忌に、彼女が霊木を刻んで将門像を造り、祠に安置したのが「国王神社」の始まりだとされる。
相馬氏の成り立ちとは?
平将門の血筋と伝えられる相馬氏は、どのような成り立ちをたどってきたのか?
一説には、将国の息子・文国が信田小太郎となり、子孫の重国は千葉氏に従い、1083年(永保3年)東北地方で起きた「後三年の役」に同行。
この従軍で目覚ましい働きがあったのか、当時千葉氏の領地だった相馬郡(茨城・千葉県内)に住む許しを得る。領主の地位ではなかったが、重国の息子・胤国は、相馬小次郎と称する。
その後、胤国の息子・相馬師国が千葉氏の次男を養子に迎え入れ、相馬師常(そうまもろつね)を名乗る。
ここに至り、今世まで続く連綿たる相馬氏が誕生したという伝承がある。
将門の女系の血を受け継ぐ千葉氏家系から辿ると、春姫の長子・忠常が、1028年(長元元年)に国守と対立し殺害してしまうという事件が起きる。
税徴収を妨害して反乱を興したとされ、討伐軍を差し向けられた。
忠常は捕われて処刑されたが、罪を許された子息もいた。
その一人が平常将(たいらのつねまさ)である。
千葉市付近の田畑開発領主として千葉介を称したとされる。
彼の息子・常長は東北地方で起きた「後三年の役」に陸奥国司・源義家の私兵として従軍。
帰還後、千葉県中央部から北部へと進出し勢力を押し上げ「千葉太夫」と号したとされている。
常長の子・常兼は、1209年(承元3年)に「近国守護補任」の任命を受ける。
そして、常兼の孫にあたる常胤の次男・師常が、前述したように相馬師国の養子となって相馬師常と名乗り、相馬氏初代当主となった。
終わりに
平将門は、伝説が多い人物である。
首が空中を飛んで京都から関東へ飛んでいった伝説などは代表的なものだろう。
平安時代、関東・東北は領地を巡っての争いが絶えなかった。
朝廷には抑える術はなく、同じ武士の力を借りるしかなかった。
将門は、束の間ではあったが東国武士の独立国を描いて見せた。
夢の実現(鎌倉幕府誕生)まで200年以上も待たなければならなかったが、将門の再来を望む声が子孫を秘匿し、伝説を作ったのではないだろうか。
平将門を家祖とする相馬氏の血脈は、今も続いている。
参考文献
平将門と東国武士団 著者:鈴木哲雄
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