平安末期の源平合戦から江戸時代まで、ある者は戦に明け暮れ、ある者は権力者となった。
そんな武将たちも、私たちと同じく病に苦しんでいたはずである。
戦国の覇王・織田信長は安土城を築城した頃には「飲水病」、現在の「糖尿病」になり、喉が渇く度に水を多く飲む病に悩まされた。
「手足のしびれや痛み」が強くなる糖尿病神経障害になり、しかも高血圧症も併発し、「本能寺の変」がなくてもあと3年の命だったという説もある。
豊臣秀吉の死因は、白米を食べ続けてビタミンB1の不足から脚気(かっけ)になったことが原因と言われている。
越後の龍こと上杉謙信は左脚が気腫になり、戦場では杖代わりの三尺ほどの青竹を引っ提げて指揮をしていた。そして酒好きだったことから高血圧による脳溢血が死因だとされている。
今回は平清盛の病と死因について解説する。
平清盛
平清盛(たいらのきよもり)は、日本三景の1つである「安芸の宮島」こと海に浮かぶ厳島神社を建立し、平安時代末期に武士として初めての太政大臣に任じられた人物である。
「平家にあらずんば人にあらず」と言われるほどの史上初の武家政権を樹立し、日宋貿易によって巨万の富を得て、その権力で平家の全盛時代を築いた。
しかし清盛の死と共に平氏の勢力は衰退し、平家は滅亡してしまうこととなる。
平清盛は伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれ、35歳で平氏の棟梁となった頃、保元の乱で後白河天皇の信頼を得て政界進出を果たす。
3年後の平治の乱で源氏の棟梁・源実朝を討ち果たすと朝廷の軍事力・警察力を掌握し、その勢いは増すばかりであった。
娘・徳子を高倉天皇に入内させると生まれた子を天皇にし、天皇家の祖父として政治の実権を手中にしたのである。
その後、源頼朝ら平氏に不満を持つ者たちによる反乱が各地で勃発する。
そこで清盛は、五男・平重衡を総大将とした大軍を南都(現在の奈良)に派遣した。重衡らは平氏に反抗的な態度を取り続ける寺社勢力を討伐するために、戦術の一つとして火計を用いたところ、興福寺や東大寺などの寺まで全焼してしまい、南都の衆徒からひどく恨まれることとなった。
原因不明の熱病
治承5年(1181年)清盛は激しい頭痛に侵され、病状は日に日に悪化していった。
清盛は水さえ口にすることができず、身体はまるで火を焚いたように熱かった。
石風呂に水を入れ、その中に清盛を入れたのだが、その水はほどなくして湯になったと言われている。
※南都を焼き払ってしまったために清盛は神仏の怒りで高熱を出したと噂された。
清盛はただ「あつ!あつ!あた!あた!」とうめくばかりであったという。
清盛の死因は一般的には熱病とされ、「あつち死」と平家物語には書かれているが、高熱によって悶え苦しんで死んだということである。
マラリアで死んだとされる説もあるが、死亡した2~3月頃は冬で蚊がいたとは考えにくく、インフルエンザや脳出血だという説もある。
しかしインフルエンザでは周りの人に感染するはずだが、周囲の人々には誰も感染してはいないためインフルエンザとは考えにくい。
脳出血と考えると、高熱が出ると即死するほどの重症な症状だが、清盛は何日もうなされ、遺言で「頼朝の首を見ていないことが心残りだ」と言っていることから脳出血ではないと思われる。
本当の死因は現在の医学的見地から「髄膜炎(ずいまくえん)」だとされている。
髄膜炎は中耳炎などから脳に細菌が入って起こる病気で、激しい頭痛・高熱・けいれんが起きる。
現在、髄膜炎は抗生物質により大抵の場合は治癒することができる病気である。
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