時は平安・永暦元年(1160年)3月11日。
平治の乱に敗れ去った父・源義朝(みなもとの よしとも)の嫡男として平家方に捕らわれたものの、奇跡的に死一等を減じられて伊豆国(現:静岡県伊豆半島)へ流罪となった源頼朝(よりとも)公。
「あぁ、これで私の人生もおしまいか……」
当時14歳の世慣れぬ少年だった当人のみならず、誰もがそう思ったことでしょう。
まぁ少なくとも、20年の歳月を経て華麗にカムバックを果たし、武家の棟梁として天下に君臨するなんて当人含め誰も思わなかったはずです。
しかし、彼は持つべきものを持っている人間でした。
今回は頼朝公の人生におけるドン底期を無償の愛で支え続けた3人を紹介。
その後の成功と逆転勝利、そして拓いた武士の世は、彼らのお陰と言っても、過言ではないかも知れませんね。
死ぬも生きるもスポンサー次第な流人生活
流罪と聞くと、絶海の孤島で監禁生活を強いられるようなイメージですが、実際には都や主要都市など一定の範囲からの退去と接近禁止を命じられ、指定された場所で「勝手に生きろ≒野垂れ死ね」というものでした。
現代なら地方でも生活に必要なインフラが整備されているため(精神的にはともかく)別に怖くもなんともない刑罰でも、当時としてみれば死活問題。流された者の多くは現地で野垂れ死んでいったのです。
京都で生まれ、源氏の御曹司として育てられた頼朝公としてみれば、伊豆はもちろん、東国へ行くのはこれが初めて。さぞや魔境へ踏み込むような思いだったことでしょう(ちなみに、討死した兄たちは東国生まれの野生児?でした)。
哀れな頼朝公を見るに見かねて、救いの手を差し伸べたのが、今回紹介する三人の救世主(きっと頼朝公にはそう見えたはず)、要するにスポンサーです。
彼らのお陰で、20年にわたる頼朝公の流人生活が格段に向上したことは言うまでもありません。
頼朝公の乳母・比企尼
その筆頭に挙げられるのが、頼朝公の乳母であった比企尼(ひきのあま)。
頼朝公には4人もの乳母がいた(いかに彼がお坊ちゃまだったかが分かります)中で、彼女は特に頼朝公が大好きだったようで、頼朝公が伊豆へ流されると聞いた時、夫の比企掃部允(ひき かもんのじょう)に言いました。
「アンタ、武蔵国比企郡(現:埼玉県比企郡)へ引っ越しますよ!」
「えぇっ!?」
少しでも頼朝公のそばについていてあげたい一心で、わざわざ便利で快適な京都から、夫の請所(うけしょ)があった武蔵国比企郡へ引っ越したのです。
請所とは、朝廷から年貢の徴収を請け負う(一定額の納付を保証する)代わり、経営の全権を委ねられた所領で、収益を多く上げれば旨みが大きいものの、凶作の年でも一定額の年貢を確保しなければならないハイリスク・ハイリターンな取引でした。
なので、これが認められるには一定以上の元手が求められたため、比企一族に相応の財力があったことがわかります。
「さぁあなた、稼ぎますよ!佐殿(すけどの。頼朝公の通称)に少しでも多く仕送りしてあげるために!」
「ひい……っ」
具体的にどのような稼ぎ方をしたのかまでは記録に残ってないものの、頼朝公の生活ぶりから、ただ元からの財産を食いつぶしていたのではなく、現地で相当な収益を上げて仕送りに充てていたことは想像に難くありません。
完全に赤の他人?三善康信
続いては、後に「鎌倉殿の13人」として活躍する三善康信(みよし やすのぶ)。
元は太政官(だいじょうかん。朝廷の三権を司る政府最高機関)の書記官を勤める下級貴族で、頼朝公との関係は「乳母の妹の子(甥)」。
……現代の感覚では完全に赤の他人ですが、乳母を通じてつながる絆は強固なもので、伯母からこう命じられます。
「いいかい、佐殿へ月三回、京都の情勢を伝え続ける=手紙を送ること!」
「えぇ……」
伯母上、面倒過ぎます。だっても考えても見て下さい。あなたの身の上に置き換えて考えたら
「私(伯母)の勤め先のお坊ちゃんにほぼ毎週、手紙を書きなさい。それも世の中のトレンドや政治情勢など、有益な内容でね!」
と言われるのと同じですよ?たとえ一回きりでも億劫じゃありませんか?それもいつまでやればいいのか期限もなく、恐らくそのお坊ちゃんが死ぬまでずっとです。
しかも、一生懸命書いて送り続けたところで、お礼状が届くどころか、きちんと読んで役立ててくれているかも定かではない……いやいや、いい人にも程があるでしょう。
でも、康信はそれをやり遂げたのです。さすがは後に数々のもめ事と向き合った幕府の良心と感服するばかりです。
頼朝公の叔父・祐範
頼朝公にとって母方の叔父に当たる祐範(ゆうはん)は既に出家しており、源平の世俗抗争に巻き込まれなかったようです。
さて、この祐範が頼朝公に何をしてあげたかと言うと、その伊豆行きに際して自分の家臣を一人同行させて護衛としたほか、伊豆に着いてからも毎月使者を派遣してくれたと言います。
そんなに毎月々々伝えたい用件があるはずもないでしょうから、恐らくその内容はささやかながら仕送りの金品であったり、あるいは「何か困ったことはないか?出来る限りで支援するよ」などと言った御用聞きであったりしたのでしょう。
父と兄は討たれて母も既に亡く、弟たちもバラバラに……そんな孤独な状況下で、数少ない親族である祐範からの仕送りはもちろんのこと、温かい励ましなど深く心に沁みたはずです。
終わりに
以上、頼朝公の流人時代におけるメインスポンサーを紹介してきましたが、きっと頼朝公の苦境を助けたのは彼らだけではなかったでしょう。
記録にもとどまらなかったような、ささやかな好意であったり、あるいはちょっと臨時収入があった時に「そう言えば、あの伊豆に流されたボン佐はどうしたかな」と思い出したりなど、多くの人が有形無形の支援を行ったものと思われます。
弟たちを粛清するなど、何かと冷酷非情なイメージで歴史ファンから人気のない頼朝公ですが、もしその通りだけの人物であったなら、苦境に陥った時にこれほどまでの支援を受けられたでしょうか。
もちろん「幼少時に受けた恩義を忘れてしまったかのごとく冷酷非情な振る舞いに及んだ」可能性もなくはありませんが、その確証となる史料を、寡聞にして存じません。
20年先のことなんて誰も分からないし、まして成功する保証なんてない中、彼らが頼朝公に対して行った支援は、まさに見返りを期待しない(できない)無償の愛情だったのではないでしょうか。
彼らにそうさせてしまうだけの何かを持っていた。そういう目で頼朝公を見ると、鎌倉幕府草創期の面白さがより深まってくること請け合いです。
※参考文献:
- 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」 (朝日新書)』朝日新書、2021年11月
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