……しかるに朝夷名三郎義秀惣門を破りて南庭へ乱入し、籠るところの御家人らを攻撃す……
(意訳:朝夷名三郎義秀は幕府御所の大手門をぶち破って南庭園へ突入。立て籠もっていた御家人たちに襲いかかった)
……なかんづくに義秀猛威を振るいて壮力を彰すは、既にもって神の如し。彼に敵するの軍士ら死を免るは無し……
(意訳:和田勢の中でも義秀の武勇はすさまじく、その猛威はすでに神がかっていた。彼に敵対して死を免れる者はなかった)※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)5月3日条より抜粋・読み下し。
これは鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』が伝える和田合戦(建暦3・1213年5月2~3日)の一幕。侍所別当であった和田義盛(わだ よしもり)が執権・北条義時(ほうじょう よしとき)を討つべく挙兵したものの、あえなく敗れ滅び去ってしまいます。
そんな中にあって、これでもかとばかり大暴れしたのが上の朝夷奈三郎義秀(あさひな さぶろうよしひで 朝夷奈義秀)。和田義盛の三男として生まれたのですが、その母親が何と巴御前(ともえごぜん)という説があるとか。
巴御前と言えば、北陸信越の雄・木曽義仲(きそ よしなか)に仕えた女傑にして愛妾として有名ですが、果たして本当なんでしょうか。
さすがにフィクション?でもワンチャンあるかも……
巴御前が義仲亡き後、和田義盛に嫁いだというエピソードは軍記物語『源平盛衰記』に描かれます。
たいそう美しく、そして無双の剛勇を振るった彼女に心ひかれた義盛は、源頼朝(みなもとの よりとも)の許しを得て結婚。
義盛も武勇に秀でていましたから、巴御前との子供であれば二人を合わせたほどの豪傑になるに違いない……そんなイメージから伝承が生まれたのでしょう。
しかし『吾妻鏡』では和田合戦の時点で義秀は38歳(満37歳)と記されており、逆算すると安元2年(1176年)生まれに。和田義盛と巴御前が出会える可能性は限りなくゼロ(つまり創作)と言えるでしょう。
これが『吾妻鏡』の筆者が年を十歳間違えて28歳=文治2年(1186年)生まれであれば可能性がなくもありませんが、これは仮説に過ぎません。
でも、もしかしたらワンチャン(ワンチャンス。一縷の望み)あるかも……そんなファン?の願望が『源平盛衰記』に盛り込まれたのかも知れませんね。
大河ドラマでも横田栄司さん演じる義盛と秋元才加さん演じる巴御前がいい感じだったので、もしかしたら期待できるでしょうか。
サメ退治と兄弟対決
ともあれ怪力の持ち主として知られた義秀。その有名なエピソードとして、小坪の浜でサメを捕らえたことが挙げられます。
時は正治2年(1200年)9月2日、源頼家(みなもとの よりいえ)が小坪の浜で遊びに出られました。御駄餉(だごう。弁当)役を小坂太郎光朝(おさか たろうみつとも)と長江四郎明義(ながえ しろうあきよし)が務め、腹ごなしかいつもの笠懸が行われます。
射手は結城七郎朝光(ゆうき しちろうともみつ)・小笠原阿波弥太郎(おがさわら あわのやたろう)・海野小太郎幸氏(うんの こたろうゆきうじ)・市川四郎義胤(いちかわ しろうよしたね)・和田兵衛尉常盛(わだ ひょうゑのじょうつねもり)らの名手が務めました。
興が乗ってきたので、頼家は御座船を仕立てさせ、みんなで洋上に乗り出します。
「おう三郎。そなたは水練の達者と聞くが、いかほどか」
義秀は待ってましたとばかり、直垂(ひたたれ)を脱いで褌(ふんどし)一丁に。それでも一応は謙遜・辞退してみせるのがお約束。
「拙いものではございますが、仰せとあらばこれよりご覧に入れまする」
言うが早いか義秀は海中へ飛び込み、数町(一町は約109メートル)も10往復ばかりして見せます。これを見て頼家は満足しました。
「流石じゃの。さぁさぁ、冷えたろうから早う上がって酒を呑め」
しかし義秀はニヤリと笑って答えます。
「その前に、一つ引出物を」
そう言って波間に姿を消した義秀。一体何をしにもぐったのか、いつまで経っても出てきません。
「おい、三郎のやつ大丈夫か……?」
もしや溺れてしまったのではないかとみんなが疑い始めた頃になって、義秀が水面に顔を出しました。
見れば義秀は三頭ものサメをがっちり抱え込んでいます。言っていた引出物とはこれのようです。皆やんやの大喝采、頼家もすっかり感心して自分の愛馬を褒美に授けます。
「ちょっと待った!」
異議を唱えたのは兄の常盛。どうしても頼家の愛馬が欲しいので、相撲で勝負をつけようと言い出しました。
「面白い。三郎よ、褒美は暫しお預けじゃ」
「は。相撲でも引けは取りませぬ」
陸に上がった一同は小坂光朝の館へ向かい、その前庭で取り組みます。
「見合って見合って……いんじゃ(※)!」
(※)NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」劇中で使用。出典不詳ながら「陰陽(≒乾坤一擲)」の訛りと推測。雰囲気を出すためここでも流用。
さぁ始まりました。両雄の勝負は文字通りの実力伯仲、大地も揺さぶらんばかりの激闘は実に壮観だったとか。
「どうだ兄者、海でも陸(おか)でも、それがしの勝ちじゃ!」
「何を小癪な、まだまだ!」
次第に常盛が押され気味となり、このままでは兄として恥をかいてしまう……そう心配した江間義時(えま よしとき。北条義時)が酔っ払ったふりをして両者の間に割って入ります。
「ヒック……この勝負、それがしが預かった!」
さすがは江間殿、和田殿の面子を気遣った義時にみんなが感心する中、常盛はまだまだ諦めません。
「三郎よ、この勝負はもらったぞ!」
言うが早いか頼家の愛馬にまたがり、そのまま駆け去ってしまったのです。確かに勝負の目的は相撲に勝つことではなく、名馬を我がものとすること。
これは一本してやられた……相撲に秀でても勝負に後れをとってしまった義秀は、まったく地団太を踏んで悔しがったと言うことです。
縦横無尽の大暴れ
さて、話を和田合戦に戻しましょう。
……また足利三郎義氏、政所前の橋のかたわらにおいて義秀に相逢う。義秀(は)義氏の鎧袖を追い取る……
(意訳:足利三郎義氏は筋替橋のところで義秀に遭遇。逃げ出したところを義秀が追撃、鎧の袖を引きちぎった)……義秀なお橋上をめぐり、義氏を追わんと擬するのとき、鷹司冠者その中を隔て、相支えるによって、義秀のため害さる……
(意訳:義氏を逃がすまいと義秀が追うと、義氏を守るために鷹司冠者が立ちはだかったが、たちまち殺されてしまった)……また武田五郎信光は若宮大路米町口において義秀に行き逢い、互いに目をかけ既に相戦わんと欲するのところ、信光が男悪三郎信忠その中に馳せ入る。時に義秀、信忠父に代わらんと欲するの形勢に感じ、馳せ過ぎ畢(をはん)ぬ……
(意訳:武田信光が義秀に一騎討を挑もうとしたところ、信光の息子である悪三郎信忠が義秀に挑みかかった。義秀は命を捨てて親を守ろうとする孝心に感じ入り、その場から駆け去った)※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)5月2日条より抜粋・読み下し。
まるで和田合戦は義秀の晴れ舞台とばかりにその活躍が描かれています。
あまりの恐ろしさに逃げ出す足利義氏(あしかが よしうじ)の鎧袖をつかんで引きちぎり、義氏をかばった鷹司冠者(たかつかさのかじゃ。恐らく家人)はたちまち殺されました。
甲斐源氏の武田信光(たけだ のぶみつ。武田信義の子)が義秀に一騎討を挑んだところ、父を守ろうと武田信忠(のぶただ)が代わりに立った孝心に免じて武田親子を見逃してやります。
……鎮西の住人・小物又太郎資政、義盛の陣に攻め入り、義秀のため討ち取らる……
(意訳:九州の武士・小物資政が和田義盛の陣へ攻め込んだものの、義秀に返り討ちとされた)……義清、保忠、義秀ら三騎轡を並べて四方の兵を攻め、御方の軍士の退散度々に及ぶ……
(意訳:土屋大学助義清・古郡左衛門尉保忠・そして義秀が力を合わせ縦横無尽に暴れまわったため、味方の軍勢まで翻弄される始末であった)※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)5月3日条より抜粋・読み下し。
鎌倉を火の海にした激闘は、日付をまたいでもまだ続きました。義秀たちの闘志も衰えません。
陣地へ攻め込んできた敵勢を返り討ちにし、四方八方に暴れまわって味方まで追い散らしてしまったと言いますから、凄まじいばかりです。
しかし衆寡敵せず、最終的に和田勢は敗れ去り、総大将の義盛は討死。義秀らは再起を期して鎌倉を脱出したのでした。
……朝夷名三郎義秀〔卅八〕并數率等出海濱。棹船赴安房國。其勢五百騎。船六艘云々……
(意訳:朝比奈三郎義秀38歳らは残党を率いて海岸から船を出し、安房国(現:千葉県南部)へ向かったのだった。その軍勢は500騎、船は6艘とのこと)※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)5月3日条
約500人が船6艘に分乗するとなると、一艘あたり80名強。相当大きな船ですから、こっそり逃げたとは考えられません。恐らく相模湾の洋上で「友を喰らった(裏切った)」三浦一族あたりに追い討ちを受けたことでしょう。
このまま逃げ切れたらよかったのですが、残念ながら義秀は和田合戦で討ち取られたメンバーに名を連ねています(5月6日条)。
終わりに
しかしこの手の英雄は「きっとどこかで生きているはず!」と願う人々が多く、嘘か真か敵の追撃を振り切った義秀が高麗(朝鮮半島)に渡ったとする伝承もあるとか。
その頃は、ちょうどモンゴルでチンギス・ハーンとなった(という伝承のある)源義経(みなもとの よしつね)が暴れ回っている筈ですから、もし合流できていたら……と妄想が膨らみます(もちろん、フィクションと分かった上で楽しんでいます)。
また義秀の怪力伝説を偲ぶ史跡として鎌倉の東に通る朝夷奈(朝比奈)の切通しは、彼が一晩で開削したという伝承も。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも朝夷奈三郎義秀が登場するのか、するとしたら誰が演じるのか……今から楽しみにしています。
※参考文献:
- 石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中公文庫、2004年11月
- 笹間良彦『鎌倉合戦物語』雄山閣出版、2001年2月
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