……經高者進於前庭。先發矢。是源家征平氏最前一箭也。
【読み】経高は前庭に進み先ず矢を発つ。これ源家の平氏を征する最前の一箭(いっせん)なり(意:永年にわたり雌伏を強いられてきた源氏による、平家討伐の第一矢がついに射放たれたであった)。
※『吾妻鏡』治承4年(1180年)8月17日条
かつて源頼朝(演:大泉洋)が挙兵した際、堤信遠(演:吉見一豊)の館へ最初の矢を射放った佐々木経高(演:江澤大樹)。
佐々木兄弟の次男としてその後も数々の武勲を立てる経高ですが、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では挙兵以後ほとんど登場していないようです。
果たして経高はどうなったのでしょうか。今回は佐々木経高のその後と、彼を慕う江間太郎頼時(演:坂口健太郎。後の北条泰時)のエピソードを紹介したいと思います。
後鳥羽上皇の逆鱗に触れ、三ヶ国の守護職を没収される
佐々木経高は生年不詳、頼朝の挙兵に加わった後は平家討伐に戦歴を重ねて淡路・阿波・土佐(現:淡路島・徳島県・高知県)三ヶ国の守護職に任じられました。
しかし頼朝が亡くなり、第2代鎌倉殿・源頼家(演:金子大地)に代替わりした後の正治2年(1200年)8月2日。経高は後鳥羽上皇(演:尾上松也)の怒りを買ったことで、これら三ヶ国すべて取り上げられてしまいます。
佐々木中務丞經高蒙御氣色。淡路。阿波。土佐。以上三ケ國守護職以下所帶等被召放之。以其趣所被申京都也。是日來聊依罪科。雖被經沙汰。勳功異他之間。暫相宥之處。爲洛中警衛之士。令騒京都。背叡慮之條。難及私寛宥之旨。再往被經沙汰。如此云々。
※『吾妻鏡』正治2年(1200年)8月2日条
【意訳】経高は頼家の怒りを買い、淡路・阿波・土佐の三ヶ国について守護職を取り上げられた。朝廷からの苦情を受けてのことである。先月の不祥事について審議の結果「いくら過去に武勲を立てていようと、京都洛中を警護する任務を帯びていながら却って人々を騒がせたことは看過できない」としてこのような処分となったのであった。
ちなみに、先月の不祥事とはこんな感じです。
六波羅書状等到來。佐々木中務丞經高乍爲帝都警衛人數。奉輕朝威條々也。是於洛中稱生虜強盜人。以其次追捕近隣民居等。加之。令守護淡路國之間。蔑如國司命。妨國務之上。去九日。催聚淡路阿波土佐等國軍勢。各着甲冑令馳騒。依奉驚天聽。被尋問濫觴之處。爲敵欲被襲之由雖申之。更無實證。所行之企。奇怪非一。早可達關東之旨。及勅命云々。上皇頻逆鱗云々。
※正治2年(1200年)7月27日条
【意訳】六波羅探題から書状が届いた。佐々木経高が朝廷の権威を軽んじ、京都洛中で強盗を捕らえると称しては人々の家を略奪しているという。国元の淡路では朝廷に納める分の年貢を奪い取り、7月9日には守護を務める三ヶ国から軍勢をかき集めて武装させ、朝廷を驚かせた。
なぜそのような暴挙に及んだのか問いただしたところ「敵の襲来に備えるため」と答弁したが、そのような事実はなく非常識もはなはだしい。よって後鳥羽上皇の逆鱗に触れたのである。
……との事。これが事実ならとんでもない話ですが、本件に対する周囲の反応から、事実無根とまでは言わずとも朝廷当局が些細なトラブルを「盛って」鎌倉に伝えた可能性も考えられます。
朝廷との関係を良好に保ちたい頼家は経高を一方的に処分し、加えて謹慎を申しつけたのでした。
落ちぶれた経高に、胸を痛める泰時
後鳥羽上皇の怒りを買ったことによって3ヶ国の守護職を取り上げられた経高の謹慎が解けたのはおよそ1年後。赦されたお礼を言うために経高が鎌倉を訪れます。
佐々木中務入道經蓮御氣色事。依蒙免許。爲賀申之。去比參着。今日迎故將軍家御月忌。於法華堂。供養法花經六部。是於京都。漸々所終寫功也。導師題學房。請僧六口。導師布施。帖絹三疋。請僧口別白布一端也。被収公所帶職等。依微力之不覃。捧少財。志之所之。聖靈可令照鑒給之趣。載諷誦文〔和字〕唱導讀上之間。令察彼懷舊。聽衆皆不禁悲涙云々。尼御臺所爲御結縁密々參給。
※『吾妻鏡』建仁元年(1201年)11月13日条
この間に出家して経蓮(きょうれん)と号した経高は、頼朝の月命日の法要を営みました。導師への謝礼は絹の反物三疋(六反)、お供の僧たちには白布一反ずつを贈ります。
「少なくて、申し訳ございませぬが……」
所領も守護職も取り上げられ、財政が苦しい中での法要でした。それでも出来る限りの誠意を尽くした経高の胸中は、きっと冥途の頼朝も解ってくれていることでしょう。
参列する御家人たちは、経高の境遇を思って涙を流します。その様子を、お忍びで参列していた尼御台・政子(演:小池栄子)が見ていました。
「中務(なかつかさ。経高の官職)殿は亡き大殿に厚く忠義を尽くした勇士です。どうか、温情を……」
政子がそう口添えしたのかどうか、果たして頼家は鎌倉からお暇(上洛)する挨拶に来た経高に、一ヶ所(一国ではない)だけ所領を返してあげたのでした。
中務入道經蓮參御所。申近日可歸洛之由。能員爲申次。參東小御所。相具子息高重。左金吾對面給。所被収公之所領内。先可返給一所之由。被仰下經蓮。以其次條々述懷移尅。或申往事難忘。或述奉公之異佗。獨拭涙退出。左衛門尉義盛已下親視聽往事之老人等。聞之多落涙。又江馬太郎殿内々被申家君云。經蓮所被収公之地。莫非勳功賞。被宥罪科上者。悉可被返付之歟。彼者爲譜代之勇士。貽其恨者。於公私定可挿阿黨之思。盍被愼思食哉云々。
※『吾妻鏡』建仁元年(1201年)12月3日
いや、もちろん一ヶ所であっても生活の足しに助かるのは確かですが……経高は複雑な思いで昔語りをしたと言います。
「かつて亡き大殿が旗揚げなされた時、平家討伐のため誰より先に矢を射放ったのは、それがしにございました……」
命懸けで忠義を尽くし、大殿より賜った所領を、その息子に取り上げられる。経高がまったく悪くないとは言いません。しかし積年の働きがちょっとしたことで無に帰してしまう虚しさは、俗世を離れた出家の身であってもさぞや堪えたことでしょう。
「中務殿……」
かつて颯爽と戦場を駆け巡った若武者が、今や老いてただ一ヶ所の所領を押し頂く屈従に耐えている。一度として戦ったこともない、若き鎌倉殿の前で。
その場に居合わせた和田義盛(演:横田栄司)はじめ古参の御家人たちは、昔を偲んで涙を流したと言います。
「……」
末席に伍していた江間太郎泰時は、帰宅してから父・義時に愚痴をこぼしました。
「佐々木殿に落ち度がまったくなかったとは言いません。しかしその所領はすべて武勲によって得たものであり、罪を赦すと言うならすべて返してあげなければしこりが残ってしまいます。佐々木殿は誰もが認める歴戦の勇士。それがあのような扱いを受けていては(自分たちが頑張って奉公し、手柄を立てたところで自分たちも同じ末路を辿ると思えば)私たちもいい気はしません。まして怨みを残しては、いざ有事に敵方へ寝返ってしまうかも知れません。御所(ごしょ。頼家様)はもう少し慎み深くお考えあるべきではないでしょうか」
……もし梶原景時(演:中村獅童)が生きていたら、絶対に謀叛の疑いをかけられていたでしょうね。
承久の乱で壮絶な最期を遂げる
かくして怨みを募らせた経高は、泰時が懸念した通りに承久3年(1221年)。後鳥羽上皇と鎌倉幕府の武力衝突「承久の乱」において、叛旗を翻して=朝廷方についてしまいました。
(官軍だから当たり前と言えば当たり前ではありますが……)
しかしご存じの通り戦いは鎌倉方の勝利に終わり、総大将たる北条泰時は京都・六波羅に入ります。
「佐々木殿が鷲尾(京都市東山区鷲尾町)に拠ってまだ抵抗を続けられていると言う。あれほどの勇士を失うのは鎌倉の損失であるから、投降して頂くように働きかけよう」
さっそく泰時は書状をしたため、経高の元へ送りました。
「生きて虜囚の辱めを受けよと申すか。断じて否だ!」
書状を受け取った経高は抜刀して割腹し、手足の肉までもズタズタに裂きました。
「あの若造に……源氏武者の死に様を見せてやれ!」
息も絶え絶えな経高は郎党に命じて自分を輿に乗せさせ、泰時のいる六波羅まで出向かせます。
「あぁ、何と言うことを……」
全身血みどろな経高の姿に息を呑んだ泰時は、残りわずかな時間で思いの丈を伝えました。
「幼い頃より『平家を制す最前の一箭』を射放った勇士の武勇伝を、父から聞いて育ちました。佐々木殿に、ずっと憧れ続けておりました。大殿亡きのち、その不遇に心を痛め続けておりました。今一度、鎌倉へお戻りいただきたかった……」
そんな泰時の言葉を聞いた経高の脳裏には、きっと頼朝や兄弟たちと共に戦い、駆け抜けた日々が甦ったことでしょう。
しかし時は無情に流れ、往時を知る者たちが一人二人と死んでいく。輝かしい過去も忘却の彼方へ風化していく中、この者だけは覚えていてくれた。
(いざ、鎌倉……佐殿!)
経高は恍惚として、言葉にならぬ叫びを上げながら絶命したと言われています。
終わりに
……佐々木中務入道經蓮者。候院中。廻合戰計。官兵敗走之後。在鷲尾之由。風聞之間。聞之武州遣使者云。相搆不可捨命。申關東可厚免者。經蓮云。是勸自殺使也。盍耻之哉者。取刀破身肉手足。未終命間。扶乘于輿。向六波羅。武州見其體。違示送之趣自殺。背本意由稱之。于時經蓮聊見開兩眼。快咲不發詞。遂以卒去云々。……
※『吾妻鏡』承久3年(1221年)6月16日条
かくして壮絶な最期を遂げた佐々木経高。古来「飛鳥尽きて良弓蔵され、狡兎尽きて走狗烹らる(鳥がいなくなれば射るための弓はお蔵入りに、兎がいなくなれば追い立てる猟犬は煮て食べられる=いずれも用済みになる)」とはよく言ったもので、頼朝の天下草創が果たされた後、御家人たちの武が疎んじられていきました。
経高はそんな鎌倉に愛想をつかしてしまった訳ですが、自分の真価を理解してくれていた泰時を前に往時の喜びを思い出したのかも知れません。
この場面は承久の乱においてもハイライトの一つなので、もし可能であれば大河ドラマでも再現して欲しいところです。
※参考文献:
- 上田正昭ら監修『日本人名大辞典』講談社、2001年12月
- 安田元久 編『鎌倉・室町人物事典 コンパクト版』新人物往来社、1990年9月
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