三代目鎌倉殿・源実朝(みなもとのさねとも)は、母・北条政子や叔父・北条義時に隠れた大人しい存在で、京都文化に憧れ、和歌ばかり作っていたイメージがある。
武芸に疎く、お飾り将軍で、若くして暗殺された不運で無能な人物、といった印象である。
今回はそんな源実朝の実像について解説する。
源実朝はどんな人物?
源実朝は、父・源頼朝、母・北条政子の次男として生まれた。
1203年(建仁3年)に追放された二代目鎌倉殿・源頼家に代わり、十二歳で将軍職を継ぐ。
実朝の兄にあたる頼家は、翌年に暗殺されてしまった。
実朝の治世は、争乱の連続であった。
・1204年(元久元年)「三日平氏の乱」
生き残りの平氏が反乱を起こし、平賀朝雅(北条時政娘婿)が御家人を率いて三日で平定。
・1205年(元久2年)「畠山重忠の乱」
御家人・畠山重忠が、執権・北条時政と正室・牧氏夫人から誹謗中傷された上に派兵され、討ち死。
・1205年(元久2年)「牧氏事件」
北条時政、牧氏夫人は平賀朝雅を将軍にしようと画策したが失敗し、北条時政夫婦が出家。
・1213年(元久2年)「和田合戦」
頼家の遺児を鎌倉殿に立てる企てに、和田義盛の子息や甥の参加が露見する。その後、義盛は謀反を決意し、激しい市街戦の末に和田氏は滅亡。
このように思春期からの争乱の連続は、実朝に少なからず影響を与えたはずで、和歌の世界にのめり込んだ要因の一つと考えられる。
実朝が優れた君主だったと示すエピソードとは?
実朝は、兄・頼家とは違う賢明さや公平な判断力が備わっていた。
それを示すのが次の出来事である。
1. 御家人達に父・頼朝時代の文書の提出命令を下す
2. 母・北条政子が開山させた寿福寺の長老僧・行勇が政治に口出しする事を注意する
3. 叔父・北条義時が、自分の従者を侍に準じた扱いにと願ったが、キッパリと拒んだ
4. 甲斐の牧士(牧場管理人)が三浦義村の代官と争った事件では、牧士が正しいと判断し、義村の代官を辞めさせた
1は、先例に学ぶやり方である。
父・頼朝が残した文書から、あるべき君主の姿を探し、形を求めたのである。
未経験者が、仕事を学ぶ上で実に最適な判断と言える。
2は、後日談がある。
行勇に対し、宿老・大江広元を通じ「政事へ口出し無用、仏法修行こそ僧侶の務め」とクギを刺した後、寿福寺を訪問し、仏法話だけで行勇を労わった。
二十代半の実朝は、キチンと公私を分けた行動を取っている。
3で、実朝が叔父・義時の願いをはねつけたのは理由があった。
後々、従者の子孫が元の身分を忘れ、幕府御家人になりたいと望む懸念がある。
そうなれば新たな争乱が生まれるだろう。
実朝は、恐らく現在ではなく未来を考えて拒否したのである。
4は、有力御家人・三浦義村だろうが、遠慮しない君主の自覚と公平さが見て取れる。
つまり彼は、お飾りな鎌倉殿ではなかったのだ。
霊感の持ち主だった?実朝伝説とは
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、「歩き巫女」が占いで実朝に未来を告げる役割りで登場している。
しかしなんと「実朝に霊感があった」と伝える話が、鎌倉幕府歴史書「吾妻鏡」に幾つかあるのである。
1. 夢のお告げ
1210年(承元4年)、駿河国(静岡県中部)建福寺の守護「馬鳴大明神」が、子供を通じて伝えた神託は「酉年合戦」であった。
大江広元は、実朝にこの事を占うよう進言した。
しかし実朝は、既に夢のお告げで知っていたため「占う必要はない」と言い、馬鳴神社に剣を奉げた。
「酉年合戦」とは、後の1213年(建保元年)の「和田合戦」を指す。
2. 予知能力
御所周辺をうろつく御家人二人が「和田合戦」の前に、実朝に呼び出された。
実朝より、一人は自分の敵、一人は味方として命を落とすと予言される。
予言を受けた御家人は、恐ろしさに身震いしたと記されている。
3. 雨乞いの力
1214年(建保4年)国々に日照りが続き、民衆の悲嘆が大きくなった。
そこで実朝は、臨済宗の開祖・栄西の下で、雨乞いの読経をした。
結果、雨が降ったと伝えられている。
4. 高僧の生まれ変わり
鎌倉時代、日本で活躍した南宋人で「陳和卿」という職人が居た。
彼は、源頼朝との面会は「戦で多くの命を奪った」と断ったが、実朝には進んで会った。
参上した「陳和卿」は、実朝を自国の高僧の生まれ変わりだと感涙し、拝礼したという。
実朝は「六年前、夢に高僧が現れ、既にその事実を告げられた」と答えている。
5. 死期を悟っていた
自身の死や源氏の行く末にも、実朝には予感があった。
若年で官位昇進する実朝を危惧した宿老達が、子孫繁栄を願い、官位を留まるよう忠告したところ「継ぐべき子孫はなく、源氏本流の運命は短い」と語ったという。
終わりに
源実朝は短い生涯故に、本来の姿が隠された存在だったかもしれない。
和歌や蹴鞠の芸道を好み、武芸を疎かにしがちな実朝を、宿老達が窘めたという事例が「吾妻鏡」に記録され、気概がない人物と受け取られた。
例えば、こんな事件がある。
「畠山重忠の乱」の8年後、重忠の末子・重慶の謀反が報告され、実朝は御家人・長沼宗政に生け捕るよう命令した。しかし宗政は命令に背いて重慶の首を持ち帰ってきたのである。
実朝は「重忠は元々罪なくして誅殺された。その末子の法師がたとえ陰謀をめぐらしたとしても何事があろうか。命に従い、真相を正してから処罰すべきであった」と大いに嘆いた。
しかし宗政は「もし生きて連れ帰れば、女性たちの言いなりになって重慶を許してしまうでしょう。だから自分が処刑したのです」と反論した。
さらに「父・頼朝に比べて武芸なおざりの勇無き者」と批判までしたのである。
しかし、この言いたい放題に実朝は重い処罰を科さず、出仕(御所出入り)を一月禁止した程度であった。
同じ言葉を頼朝や頼家が聞いたら、即座に処罰していただろう。
実朝の冷静さ・公平な判断・政治に私情を持ち込まぬ在り様は見事である。
更に、常人とは違う霊感があり、自身や源氏の未来さえ予感していた。
和歌に傾注した理由は、子孫を継げぬ実朝が後世に残せるモノを望んだからなのか。
参考文献 :
日本の歴史09「頼朝の天下草創」 山本幸司 著
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