鎌倉殿の13人

独裁政治家5代執権・北条時頼は意外に善政を為した?

5代執権・北条時頼とは?

画像:北条時頼像 建長寺所蔵

北条時頼(ほうじょうときより)は、3代執権・北条泰時の孫にあたる。

父は泰時の嫡男・時氏で、28歳という若さで亡くなっている。
母は有力御家人・安達景盛の娘で、倹約心得を実践してみせた松下禅尼である。

時頼は、兄・経時と共に祖父(泰時)に養育された。

1246年(寛元4年)4代執権・経時が23歳で病死すると、経時の息子2人が幼かったことから、時頼が執権職を継ぐこととなった。

時頼は20歳で5代執権になったが、身内一門から反時頼の企てが露見する。

3代執権義時の孫・名越光時と弟達(北条朝時の息子達)が、解任された前将軍・藤原頼経を担いで政権転覆を図ろうとしていたのである。

時頼は、一門中で執権家に反抗する力を取り除く一方、元凶となった前将軍・頼経を鎌倉から京都へ追い出した。

さらに、前将軍の取り巻き最大勢力であった三浦氏を「宝治合戦」で排除した。
そして三浦氏に味方したという理由で、上総国(千葉県中部)の有力御家人・千葉秀胤にも追手を掛け、一族を滅ぼしたのである。

北条氏に対抗出来る有力御家人や不穏分子を粛清した時頼は、執権家の権力独占を進めた。
一方で、一貫して祖父・泰時や経時を支えた伯父・北条重時には信頼を寄せ、執権補佐である「連署」に迎えている。

しかし「宝治合戦」の余波は中々収まらず、各地で騒動や謀反の動きが続いた。

1252年(建長4年)、5代将軍・藤原頼嗣が騒動の黒幕を疑われて京都へ追放となる。代わりに後嵯峨天皇第一皇子・宗尊親王が6代将軍に迎えられた。

1256年(康元元年)、時頼は流行病や赤痢に掛かり、出家して執権職を譲っている。

義兄である北条長時が執権職を預かったが、権力掌握は依然、時頼の手中に在った。

その後、病気が悪化し1263年(弘長3年)37歳で時頼は死去した。

時頼が独裁政治へ進んだ背景

時頼は、なぜ独裁政治へと歩まざるを得なかったのか?

そこには権威は将軍が持ち、権力は執権側という鎌倉幕府の二重構造があった。

北条氏は鎌倉幕府の将軍になれる血統ではない。
平氏を名乗りはしたが、三浦氏や千葉氏のように桓武天皇皇子・高望王まで遡れる家系かどうか怪しいのである。

それ故に、傀儡の存在が必要不可欠だった。
有力御家人(三浦や千葉氏)達は、北条氏の弱みを知っていたのである。

3代執権・泰時が築いた合議制は、公正明大な彼あってこそ機能したが、形骸化していた。
頼朝が亡くなった時と同様に、御家人同志のパワーゲームが始まったのである。

今回は、4代将軍・藤原頼経が焦点になった。

独裁政治家5代執権・北条時頼は意外に善政を為した?

画像:藤原(九条)頼経像(鎌倉明王院蔵)

頼経は将軍職を解任させられていたが、5代将軍に決まった子息の後見として鎌倉に残留していた。
廃されても、元側近たちの繋がりは存在する。

北条一門・名越光時も頼経の側近だった。
「宝治合戦」で主戦を唱えた三浦泰村の弟・光村も同様である。
光村は、頼経が京都へ強制送還される別れ際に、数時間涙にくれたと伝えられている。

北条氏が傀儡と定めた将軍と結びついた側近御家人達が、北条得宗家に不満を持って結集すれば幕府は傾きかねない。
「宝治合戦」以後、御家人が将軍に進物する行為は、執権・連署職以外禁止された。

その後、時頼は4代将軍・頼経だけではなく、5代将軍・頼嗣も鎌倉から追放する。
そして6代将軍・宗尊親王を迎え、将軍職を著しく規制し、お飾り同然としたのである。

時頼が専横政治に走ったのは、将軍の権威を利用する側近勢力の謀反連鎖が繰り返されたからに他ならない。

善政を為した理由と時頼の評価

画像:『徒然草』の北条時頼と北条(大仏)宣時/江戸時代『前賢故実』

時頼は、祖父・泰時が設置した「評定衆」という合議制を有名無実にしていった。
幕府の意思決定に力を持つのが執権邸での内々会議に変わり、権力私物化が始まる。

一方で、御家人の土地訴訟を扱う判決準備機関として「引付」を設置した。
裁判に掛かる期間を短縮させ、判決に不満が出ぬように公平に務めることが目的だった。

また、京都警護の役務期間を半年から3ヶ月に短縮し、御家人の負担軽減に努めた。
不満が高まれば御家人は謀反勢力に結びつくため、彼らに配慮する事は不可欠だった。

時頼は御家人ばかりでなく、農民慰撫も行っている。

1251年(建長3年)地頭と農民間の訴訟に関する法を決め、更に1253年(建長5年)農民保護を新たに出した。
農民保護が生じた裏には、1230年から1231年にかけて人口の1/3が失われたと伝えられる大飢饉が挙げられる。

参考記事 :
寛喜の飢饉とは 「鎌倉時代に人口の3割が亡くなった大飢饉」
https://kusanomido.com/study/history/japan/kamakura/62466/

田畑を耕す農民も減少すれば、年貢も減ったはずである。

時頼は、幕府財政安定のために、農民保護を打ち出さねばならなかったのである。

他の施策としては

・「沽酒の一屋一壺制」:酒屋が作る量を一壺と限定する(飲酒による害を軽減)
・贅沢や賭博、鷹狩禁止(質素倹約の奨励)
・燃料(薪・炭・蒿)等の価格管理(生活必需品物価安定)

などが挙げられる。

時頼は中枢権力とは無縁の外様御家人や、地頭と対峙する荘園領主や農民、正室の子供でない庶子など弱い立場を救済する施策を取った。

南宋国帰化僧・無学祖元や、元国渡来僧・一山一寧は、彼を名君と高評価した。
時頼の弱者救済には、祖父・北条泰時、質素倹約奨励には、母・松下禅尼の影響が見て取れる。

権力を私物化する一方で、善政をあまねく行き渡らせることで、北条得宗家の権力専横批判を躱す狙いもあったのか。

彼の評価は、独裁政治家と名君の二つに分かれている。

最後に

5代執権・北条時頼は、執権体制で鎌倉幕府を安定させようと、権力専横に向かった。

日本歴史学者・高橋慎一朗は時頼を「真面目で責任感が強い」と評している。
争乱が続く中で弱者救済に務め、人心安定を模索する姿勢が見える。

有力御家人・三浦、千葉氏を排した「宝治合戦」は、時頼にも重く圧し掛かっていたはずだ。
彼は「宝治合戦」後、相模国一宮に三浦氏慰霊を行っている。

時頼の人生は、争乱というよりも後始末に明け暮れたものだったともいえる。

 

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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