中世の日本には海賊が存在していた。
海賊とは、自分達が支配する海域を通行しようとする船を他の海賊から警護したり、通行料の取り立てを行ったりすることを生業とした人々である。
しかし海賊の存在によって、海に一定の治安が保たれていた。
堅田
室町時代、当時の数ある海賊集団の中でも瀬戸内海の村上海賊が有名であった。
その村上海賊と並び、琵琶湖に面した近江国・堅田(現・滋賀県大津市)にも有名な海賊がいた。(※琵琶湖は湖のため厳密には湖賊)
琵琶湖は縦にのびた日本最大の湖で、中世では北陸から京都に向かう物資は琵琶湖上の水運を利用し運搬されていた。
この琵琶湖の堅田付近は細くくびれていて、この付近だけは湖東と湖西の距離はわずか1キロメートルほどで、堅田から対岸はいつでも見通せる距離にある。
そのため琵琶湖を運行する船は必ず堅田の目先を通行しなければならず、運行する船から通行料を徴収しようとする場合に堅田は最良の場所であった。
堅田は小さな町だが、その立地を活かし当時「湖九十九浦知行」といわれ、琵琶湖全域の支配権を持っていた。湖畔の集落の端に竹矢来で囲まれた建物があり、その手前には積み荷を満載した船が接岸される。
この関所とされる場所で、琵琶湖を往来する船は必ず通行料を支払うことが義務付けられていたとされる。
もし支払わずに突破しようとすれば、狭い水道で船は捕まり堅田の海賊から制裁を受けた。
びわ湖大量殺人事件
この町に兵庫という名前の青年がいた。
この男も他の堅田の住人と同じく、周辺を通行する船から通行料を取ったり水運業を行ったりしていた。場合によっては海賊行為を行なって生計を立てていたという。
ある日、出羽の羽黒山(現・山形県)から「15人の山伏と1人の少年の団体」が堅田に来た。
彼らは少年を京都の総本山・聖護院で出家させるための長旅の途中で、兵庫の持ち船に乗って琵琶湖を南下し、京都を目指す予定であった。
彼らは往復の旅費のほかに本山に納めるための上納金も持っていた。兵庫は彼らの所持金に目をつけ、こともあろうに強盗を思いたったのだった。
その計画は、
船が堅田を過ぎて5〜6キロメートルほど南の対岸、烏丸ヶ崎(現・草津市)にさしかかった所で、手下達の武装船を送り込んで彼らを皆殺しにする
というものであった。
人目の無い岬の陰で、船はいきなり不審な海賊船に進路を阻まれ、さらに今まで山伏達を乗せていた船の船頭も海賊の正体を現した。
逃げ場を失い水の中へ飛び込む人もいたが、水練に巧みな兵庫の手下達は密かに槍を構えて船底に潜り込んでいた。水中に逃げ込む山伏達を槍で串刺しにし、船上にいた山伏達もわずかな時間でほとんどが殺された。
残っていたのは出家を予定していた少年と、後見役の僧侶の2人だけだった。
僧侶は海賊達に少年の命だけは助けてほしいと懇願したが、結局は少年も僧侶も殺されてしまった。
当時、海賊は必要悪として許容されていた反面、このような事件が日常的に起こるのが中世社会であった。しかも警察機構も無く、被害者を皆殺しにすれば事件を知られることもなかったのである。
父親の死
しかしこの事件の時、山伏の中に1人だけ死んだふりをして逃れた人がいた。彼は現場から2〜3キロメートル南の下笠村に逃げて助けを求めた。
これにより兵庫の凶悪犯罪は知られ、この事実は山伏の総本山・聖護院に知られることとなる。聖護院側は事の次第を室町幕府に訴え出て、事態は1人の海賊の逸脱行為にとどまらず、堅田全体の責任問題に発展していった。
これに慌てた堅田の住人達は、兵庫とその父・弾正を探した。
この時、兵庫親子は琵琶湖の北端の村の海津(現・高島市)にいた。親子は堅田だけでなく様々な琵琶湖の港湾を仕事で移動していた。しかし堅田からの飛脚で、弾正は兵庫が犯した事件のことを知ったのである。
すると弾正は「兵庫の身代わりとして自分の首が京都に上ることになれば、堅田に災いが降りかかることもないだろう」と考え、堅田へ戻って切腹を行い命を絶った。
彼の首は京都に届けられ、それ以後、堅田全体に事件の責任が波及することは無かった。しかし兵庫は、自分の浅はかな行いのせいで父を死なせてしまったことを知り、大きな衝撃を受けた。
兵庫はそのまま俗世を捨て遍歴の旅に出て、全国の60余州の霊仏霊社を回って魂の救済を求めたのだった。しかし兵庫の魂を救済する寺社などどこにも無かった。
そんなある日、兵庫の夢の中に神が現れ啓示を受けた。それは「本福寺を訪ねよ」というものであった。
兵庫は堅田の本福寺で浄土真宗に帰依し、阿弥陀如来への信心に目覚めたという。
その信心の堅固さは並のものではなく、「悪に強きものは善に強き」という言葉は、彼を指すものだと噂が立つほどであった。
浄土真宗
この兵庫の話は堅田の本福寺に伝わる「本福寺跡書」に記されているものである。
しかしこの話、何の罪もない旅人を16人も殺して何とも思わなかったのに、たった1人の身内の死によって世の中を虚しく思うとは、兵庫は自分勝手過ぎないだろうか。仏道への帰依の動機も罪の無い人々の命を奪ったことへの反省でなく、父を死なせたことの後悔や自身の後生への不安があったように思える。
つまり兵庫に海賊行為への反省は見えないのだ。しかしこの考え方は兵庫だけのものでもなかったようで、この話を記した本福寺の僧侶もこれを心温まる話として紹介している。
この逸話には「悪人」すらも救済されるという浄土真宗の教義と、兵庫の帰依心の崇高さを際立たせる意図があったと考えられる。
当時の人々にとって人間の命は常に等しいものであるとは限らなかった。外部からやって来た山伏や旅人といった存在は、通り過ぎてしまえば生涯再び出会う可能性は無い。しかし家族や近隣住人とは、現代人以上に濃密な関係が築かれていた。
いざという時に頼れるのは側にいる家族や村人や町人であり、彼らにとって外来の旅人と内輪の知人では命の価値が元から違っていたのだった。
この事件を起こした兵庫が心の拠り所にした浄土真宗は、鎌倉時代に親鸞(1173〜1262)が開いた仏教の宗派である。親鸞の時代にはそれほど有力では無かったが、後に「悪人正機」(※全ての衆生は凡夫たる悪人であり、悪人こそが救われる)という思想が多くの人々に受け入れられ、一気に拡大した。
戦国時代にはその力が一向一揆となり、世俗権力を圧倒するまでとなった。
浄土真宗本願寺教団は、このような全国の海賊的な人達をも束ねて組織化することに成功したのだった。
それは多くの戦国大名や織田信長さえ震撼した、一向一揆の強さの秘密のひとつでもある。
参考文献 : 室町は今日もハードボイルド 日本中世のアナーキーな世界 (新潮社)
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