神奈川県藤沢市にある清浄光寺(しょうじょうこうじ)には、国の重要文化財である「絹本著色後醍醐天皇御像」が所蔵されている。中国皇帝の冠を頭に付け、両手には密教の法具、さらに袈裟を着ているという、まさに「異形」ともいえる肖像画である。
なぜ、このような肖像画が残ることになったのか。
それは後醍醐天皇の激動の人生そのものを表していた。
鎌倉幕府の滅亡
※後醍醐天皇
鎌倉時代末期、後醍醐天皇の御世。朝廷はその権力を大幅に低下させていた。
その原因が鎌倉幕府の存在である。幕府は武士の力を強め、朝廷にも勝る権力を有していた。源頼朝による幕府の設置から150年、当時の執権「北条高時」は政務そっちのけで享楽にふけっていた。幕内は腐敗し、一部の権力者が幅を利かせる状態である。しかも、朝廷はこの幕府の承認を得なくては皇位継承者を決める事も出来ない有り様であった。
この頃の鎌倉幕府を評した言葉が残っている。
「関東は戎夷なり 天下管領然るべからず」
鎌倉幕府は野蛮人で天下を統べる資格は無い、と。
1331年、ついに後醍醐天皇は倒幕に動き出す。天皇のもとには楠木正成や名和長年といった経済力のある新興勢力が集った。さらに関東からは足利尊氏や新田義貞といった北条氏の政治体制に不満を持つ有力武士たちも加わる。
こうして1333年、後醍醐天皇は鎌倉幕府の打倒を成功させた。
建武の新政
※後醍醐天皇が計画した紙幣発行のもととなった「元」の紙幣とその原版
鎌倉幕府の滅亡により朝廷の権力を取り戻した後醍醐天皇は、天皇中心の政治体制を作り始める。
「建武の新政」である。
そこには、幕府の力の源泉ともなっていた「土地を与える権利」を、天皇が仕切ることも含まれていた。その行使にあたっては「綸旨(りんじ)」によって行われるようになる。綸旨とは、天皇の意思を直接伝える文章の事である。この綸旨は、武士への恩賞や軍事の催促にまで及んだ。後醍醐天皇は、自らに絶対的な権力を集中させるために綸旨を用いたのだ。
さらには、朝廷の政治体制も公家のみで構成されていたものを、幕府滅亡に尽力した武士を登用することで改革を行った。これにより名を上げたのが楠木正成である。
後醍醐天皇の先進的な改革はそれだけではない。
10世紀以降途絶えていた統一貨幣の鋳造を再開したのだ。そこには大陸を支配していたモンゴル王朝「元」が、貨幣を統一して東アジアにおける経済発展を成し遂げたという影響があった。また、後醍醐天皇は日本初となる紙幣の発行も計画していたという。
後醍醐天皇 の型破りな改革
しかし、後醍醐天皇の新政に暗雲が立ち込める。
綸旨(りんじ)により土地を与えてもらいたいという武士が朝廷に押し掛けることになり、政務に支障が出たのだ。そのため、一度は与えた土地を没収するという事態にまでなり、都は混乱に陥った。
その頃、後醍醐天皇の内裏の近くに「二条河原落書」が掲げられた。
「この頃都に流行るもの、夜討、強盗、偽綸旨」
都の混乱と不満を表した風刺である。
こうした不満は頂点に達し、それを受けて足利尊氏が鎌倉で独自の動きを見せ始めた。天皇の許可なく武士に土地を分け与え、後醍醐天皇との対決姿勢を明確にしたのである。
当時は保守的な思考のみが常識だった中で、後醍醐天皇の「新しいことを始めよう」という考え方自体が型破りだったのだ。
神格化させることでアピール
※後醍醐天皇図(1890年、尾形月耕・画)
貨幣の発行をみても、日本を理想的な国家にまとめるための現実的な手段だったが、その革新性は当時の武士たちには誰も伝わらなかったのである。武士にとっての正義とは「領地を与えてくれるもの」だったからだ。
さて、ここで冒頭で画いた後醍醐天皇の肖像画を見てみよう。
そこには様々な人物のイメージが取り入れられている。弘法大師(空海)に似た構図、全体のイメージは聖徳太子を思わせ、右手に持つ法具も弘法大師の肖像画に描かれているものと同じだ。
これは、自らを弘法大師と同一視させて強大な力を示そうとしたのではないか。さらには神格化の域にまで高め、その存在を強烈にアピールした。天皇として、乱世を収めるためにその個性を存分に発揮したのだろう。
負けても、その先へ
※足利尊氏
1335年、ついに京へ向けて足利尊氏の軍勢が進行してきた。一時は楠木正成らの活躍により足利軍を九州まで追いやるも、わずか4カ月で足利尊氏は京を目指してふたたび挙兵したのだ。それを知った後醍醐天皇は動揺したという。
しかし、楠木正成は足利軍を京に誘い込み、兵糧攻めにする案を上申した。兵糧攻めという戦術も、戦いが大規模になってきた当時では非常に革新的であった。さらに和睦という手段もあったが、後醍醐天皇は京の手前で足利軍を迎撃するという選択をする。今までの戦いで勝てたのも「天の意志」であったというのだ。
だが、後醍醐天皇の軍は、進行してきた足利軍の圧倒的な戦力を目の当たりにすることになる。尊氏は西国の武士の力を借りる代りに、武家の天下となった暁には後醍醐天皇によって没収された土地を返還するという約束をもって、大軍勢にまとめあげることに成功していたのだった。
楠木正成や新田らは善戦するも、足利軍に大敗を喫する。これにより、後醍醐天皇はその座を奪われて幽閉された。その後、京を脱出すると吉野へ逃れ、南朝を立ち上げた後も醍醐天皇は最後まで京の北朝と戦う姿勢を貫いたのである。
最後に
後醍醐天皇は、足利尊氏に負けても最後まで戦い続けた人物であった。没後も南北朝の争いが続くが、それは両者にとって「天皇」を中心とした政権の確立のために戦ったという点では違いがない。天皇の地位を武家社会から取り戻すという意味では、後醍醐天皇の戦いは無駄ではなかったのだ。
仮にだが、後醍醐天皇がすんなりと足利尊氏との和睦を選んでいたら、その後の歴史は大きく変わったかもしれない。天皇が不利な状況で結ばれた和睦は、天皇の力を低下させるとともに武士の力を強めさせるだろう。そうなれば、明治維新も起きずにその後の歴史も大きく変わったいた可能性もあるのだ。
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