目次
天武系の男子が絶滅寸前
奈良時代は、天平文化が華開いた反面、飛鳥時代に形成された天武天皇の皇子による皇位継承と政権担当が崩れた時代でもある。
奈良時代中期には藤原氏の暗躍で天武系の男子は絶滅寸前であった。
奈良時代初期の政争については『奈良時代を皇位継承をめぐる内乱から見る 1.長屋王の変と藤原広嗣の乱』に書いている。
橘奈良麻呂の乱
藤原武智麻呂の次男の仲麻呂が権力をふるっていた天平宝字元年(757)、橘諸兄の長男の奈良麻呂による政権奪取計画が発覚する。
奈良麻呂は、聖武天皇の唯一の男子の安積親王が早世したにもかかわらず 孝謙天皇(46代)に皇嗣がいないことに危機感を抱き、聖武天皇がいったん危篤となった天平17年(745)以来、計画を抱き続けてきた。
この計画に関与した黄文王(父は長屋王、母は藤原不比等の娘の長娥子)、道祖王(天武天皇の孫で、新田部親王の子)らは拷問のあげく撲殺された。
奈良麻呂の処遇に関する記述は『続日本紀』にないのでわからない。
また、このクーデターの関与を疑われた右大臣の藤原豊成(武智麻呂の長男で仲麻呂の兄)に、左遷の詔が下された。
道鏡の登場、仲麻呂に暗雲
天平宝字2年(758)、孝謙天皇が退位、皇太子の大炊王(天武天皇の孫で、舎人親王の子)が即位して淳仁天皇(47代)となった。淳仁天皇は仲麻呂に恵美押勝という姓名を与える。
天平宝字4年(760)に仲麻呂は太師(太政大臣の唐風の呼び名)に昇進し、名実ともに権力の頂点に立った。しかし同年に仲麻呂の後ろ盾だった光明皇太后が崩御してから、流れが変わっていく。
天平宝字6年(762)、孝謙太上天皇は突然 淳仁天皇から、天皇としての「国の大事」(人事、軍事)を取り上げる。淳仁天皇が、道鏡を寵愛する孝謙太上天皇を批判したからとの記録がある。
危機感を高めた仲麻呂はますます権力を強化していった。
仲麻呂(恵美押勝)の乱、天武系の男子が絶滅
天平宝字8年(764)、仲麻呂の軍事衝突計画が密告で明らかになった。
密告を受けて孝謙太上天皇は中宮院に使者を送り、淳仁天皇と仲麻呂から天皇の象徴である駅鈴と天皇御璽を奪取した。仲麻呂は態勢を整えるべく平城京を脱出して、父祖からの基盤国の近江国に向かう。
仲麻呂は同行していた塩焼王(天武天皇の孫で、新田部親王の子)を、淳仁天皇に代わる新天皇として擁立した。
そして高島郡三尾埼で追討軍と衝突、仲麻呂と塩焼王の首ははねられ、同行した仲麻呂の一族はみな斬殺された。
橘奈良麻呂の乱で左遷されていた藤原豊成の官位が右大臣に戻された。淳仁天皇は廃されて大炊親王になり、母や妻らと淡路国へ護送された。孝謙太上天皇は重祚し、称徳天皇(48代)として即位した。二度目の天皇即位である。
天平神護元年(765)、藤原豊成は一族から逆賊を出した贖罪として、藤原鎌足が賜わった功封の返還を申し出た。
宇佐八幡神託事件
天平宝字8年(764)、恵美押勝の乱の鎮圧後、称徳天皇は道鏡を大臣禅師とした。道鏡はこのあと天平神護2年(766)には天皇に準じる法王に昇り詰めた。
神護景雲3年(769)、太宰府の主神の中臣習宜阿曾麻呂が「宇佐八幡神が道鏡を天皇にせよと託宣した」と上奏した。
称徳天皇は確認させるために、宇佐八幡神から召された尼僧の法均(広虫)ではなく、弟の和気清麻呂を送った。
しかし彼のもたらした神託はまったく逆で、激昂した称徳天皇は法均と和気清麻呂を流罪とした。
称徳天皇の崩御、皇統は天智系に
神護景雲4年(770)、この年の始めに病に倒れた称徳天皇が崩御した。
天平神護2年(766)に左大臣に昇進していた藤原永手と、右大臣の吉備真備らが称徳天皇の遺宣として、白壁王(天智天皇の孫で、志貴皇子の子)を皇太子とした。もう天武天皇の皇子と王は誰もいなかった。
白壁王はすでに62歳なので、息子の他戸親王の中継ぎの天皇である。
白壁皇太子は道鏡を下野国に配流し、道鏡はそのまま死去した。法均と和気清麻呂姉弟は赦されて都に戻った。
井上内親王廃后・他戸親王廃太子事件
白壁皇太子は即位して光仁天皇(49代)となり、称徳天皇の異母妹の井上内親王は皇后となった。翌年、他戸親王は立太子した。
宝亀3年(772)、井上皇后が光仁天皇を数年に渡って呪詛し続けていた、との密告があった。井上皇后は廃后、他戸皇太子は廃太子とされた。
続けて宝亀4年(773)に、光仁天皇の同母姉の難波内親王の死も井上内親王の呪詛とされた。井上内親王と他戸親王は大和国宇智郡で幽閉され、死去する。
この年、他戸親王の異母兄の山部親王が立太子した。
この「井上内親王廃后・他戸親王廃太子事件」は、藤原宇合の息子の百川を中心とした陰謀といわれる。
その4年後、井上内親王の怨霊に苦しめられた山部皇太子は、遺骨を改葬して地位を復権させた。
桓武天皇の即位、藤原種継暗殺事件
天応元年(781)に光仁天皇は病のため退位して、山部皇太子が桓武天皇(50代)として即位した。翌日、弟の早良親王を皇太子とした。
天応2年(782)に延暦に改元された。翌年から、桓武天皇は平城京から長岡京への遷都を計画した。
延暦4年(785)長岡京にて、藤原宇合の孫で中納言の藤原種継が暗殺された。
桓武天皇は大伴継人らを斬刑、関与したとして早良皇太子を廃太子にしたうえで淡路に配流。早良親王は飲食を断って絶命した。
桓武天皇は早良親王の怨霊にもおびえ、延暦13年(794)に平安京に遷都した。
この記事へのコメントはありません。