戦国時代

『敵将に一騎討ちを挑んだ戦国女性』鶴姫と34人の侍女たちの壮絶な最期

戦国時代は男性だけでなく、女性も戦いに身を投じることが少なくありませんでした。

自分や家族を守るため、武士の名誉を守るため……彼女たちは様々な理由で弓や刀を手にとったようです。

今回はそんな女性の一人・鶴姫(つるひめ)のエピソードをご紹介。

果たしてどんな最期を遂げたのでしょうか。

毛利への宣戦布告

鶴姫は天文10年(1541年)、備中国(岡山県西部)を治める戦国大名・三村家親(いえちか)の娘として誕生しました。

兄弟姉妹には庄元祐(しょう もとすけ)・三村元親(もとちか)・三村元範(もとのり)・上田実親(さねちか)・三村真経(まさつね)・楢崎元兼室・水野勝成室・石川久式室らがいます。

やがて成長した鶴姫は、同国の常山城(つねやまじょう。岡山県玉野市)を治める豪族・上野隆徳(たかのり)に嫁ぎました。

二人の間に子供がいたかは定かでないものの、隆徳には嫡男の上野隆秀(たかひで)と、もう一人の男児がいます。

当時、父の三村家親は、毛利氏の後ろ盾を得て備中国をほぼ制覇、備前国(岡山県南東部)へ進出し、また美作国(岡山県北東部)まで勢力を伸ばそうと目論んでいました。

画像 : 1565年頃の勢力図 戦国時代勢力図と各大名の動向より

しかし永禄9年(1566年)、家親は宿敵・宇喜多直家が派遣した遠藤秀清(ひできよ)・俊通(としみち)兄弟によって暗殺されてしまいます

その悲報を聞いて、鶴姫も大いに悲しんだことでしょう。

なお、長兄の庄元祐は、それ以前の元亀2年(1571年)に討死したと言われています(諸説あり)。

三村の家督は、次兄の元親が継承。
なおも宇喜多と抗争を繰り広げたものの、天正2年(1574年)になると毛利氏が宇喜多と手を組んでしまいました。

このまま父の仇と手を結ぶわけには行きません。そこで元親は重臣らの反対を押し切って、毛利との同盟を破棄してしまうのです。

重臣「毛利と宇喜多に東西から挟撃されますぞ!」

元親「畿内から勢力を伸ばしている織田と手を組めばよい。合わせて浦上(宗景)や三浦(貞広)とも連携しよう」

かくして元親は、毛利・宇喜多に宣戦布告。

時は天正2年(1574年)11月、備中兵乱(びっちゅうへいらん)の火蓋が切って落とされたのでした。
※備中兵乱とは、備中の戦国大名・三村元親と毛利氏・宇喜多氏による戦い

兄・三村元親が自刃

画像 : 備中兵乱の中心となった松山城 wiki c Reggaeman

毛利勢は、元親が堅固に改修した備中松山城(岡山県高梁市)をいきなり攻めることはせず、周辺の支城から一つずつ潰していく作戦をとります。

まずは、三村元範が守備する杠城(ゆずりはじょう。楪城とも。岡山県新見市)を攻略し、11月6日以前に元範を自害に追い込みました。

続いて猿掛城(さるかけじょう。岡山県倉敷市)を攻め立て、守将の三村兵部は、12月23日に城を捨てて松山城へ逃げ込みます。

年が明けた天正3年(1575年)には、三村方の城が次々と陥落していきました。

毛利勢は、1月20日に美袋城(みなぎじょう。岡山県総社市)、1月29日に鬼身城(きのみじょう。岡山県総社市)ほか、一通り支城を攻略した後、ついに松山城を包囲し、3月16日に総攻撃をかけます。

しかしさすがに天下の堅城、松山城は容易には落ちず、毛利勢にも少なからず被害が出ました。

そこで毛利勢は作戦を変更し、力攻めはせず持久戦に持ち込みます。
4月に入ると広範囲で麦刈りを行い、孤立無援で食糧が欠乏してきた松山城内からは投降者が相次ぎます。

5月22日には、ついに元親が降伏し、6月2日に自刃して果てました。

人といふ 名をかる程や 末の露 きえてぞかへる もとの雫に

※『続英雄百首』より、元親の辞世。

【意訳】人間など、しょせん露(つゆ)のように儚い存在である。それが元の雫(しずく)に戻るだけなのだから、名誉がどうのと言うほどの価値もない。

かくして戦国大名としての三村家は滅亡し、残された者たちは毛利に臣従することでその命脈を保つのでした。

夫と子供も自刃

画像 : 最早これまでか……(イメージ)

しかし夫の上野隆徳は、主君亡き後も抵抗を続けます。

もはや勝算がないのは百も承知。しかし宿敵に屈するぐらいならば、名誉をまっとうするのが武士というものです。

かくして天正3年(1575年)6月6日、常山城を毛利勢が包囲。
上野勢は孤軍奮闘するも衆寡敵せず、刀折れ矢尽きた隆徳は覚悟を決めました。

「今はこれまで……女子供は落ち延びよ。我らはこの城と共に果てる」

「私たちも御供させてくださいませ」

「ならぬ。そなたは皆をまとめて、敵に下れ。女まで殺しはすまい」

「……承知いたしました」

隆徳は、鶴姫に女性や子供たちを託し、自身はどうしても残ると聞かなかった妹と、幼い次男を手にかけます。
そして6月7日払暁、嫡男の隆秀と共に自害して果てたのでした。

一度は落ち延びると約束した鶴姫ですが、このまま引き下がっては武士の妻として面目が立ちません。

鶴姫は侍女たちを集めて、こう言いました。

「皆の者、よく聞け。このまま生き永らえたとて、敵の辱めを受けるばかり。ならば私は、敵わずとも敵中へ斬り込み、武士の名誉をまっとうせんと思う」

その決意を聞いた侍女たちは、少なからず動揺したことでしょう。

「そなたらもそれぞれ考えがあろうから、無理強いはせぬ。生き延びたい者は遠慮なく申し出よ」

結局、34名の侍女が鶴姫に賛同してくれました。また生き残っていた城兵83名も加わります。

「死出の供をしてくれる者たちには、心から礼を言う。またここで別れる者たちについても、どうか達者で暮らしてほしい」

手短に別れを惜しんだ鶴姫たちは、急いで武装に身を固めました。
日ごろ男性たちに着せつけてはいても、自分で鎧を着るのは初めてだった者も少なくなかったでしょう。

てんやわんやの支度が調ったところで、鶴姫たちは晴れて「初陣」したのでした。

敵将に一騎討を挑む

画像 : 毛利勢に挑みかかる鶴姫(イメージ)

「かかれーっ!」

城門を開き、鶴姫たちは毛利勢へ襲いかかります。

もはや抵抗もあるまいとタカをくくっていた敵将・乃美宗勝(のみ むねかつ)の部隊は、俄かに混乱しました。

「敵襲、敵襲ーっ!」

鶴姫たちはここが死に場所と暴れ回り、いくらかの戦果を上げたでしょうか。しかしその勢いも、そう長くは続きません。

毛利勢は慌てて応戦の態勢を立て直しながら、やがて違和感に気づきます。

「……何だ、女子(おなご)が混じっておるではないか」

男たちはほとんど死に絶え、生き残った女性たちが無駄な抵抗を試みている。
その健気さを毛利勢は憐れみ、かつ嘲笑ったことでしょう。

「女子だからと侮るな!そこにおわすは乃美兵部(宗勝)か、いざ尋常に勝負せよ!」

一騎討ちを挑まれた宗勝は歴戦の勇士。いたずらに女子を殺すのは忍びないと鶴姫を説得しました。

画像 : 乃美宗勝肖像画(勝運寺蔵)public domain

「そなたらは存分に武士の矜持を示された。これ以上の流血は無益であるゆえ、疾(と)く落ちられよ」

宗勝の説得を受けて闘志を殺がれたのか、鶴姫は一騎討ちを断念します。

「かくなる上は仕方あるまい。ならばこの太刀を受け取られたい。当家重代の家宝・国平じゃ」

「確(しか)と受け取った」

……是は我家重代の国平が打たる名作なり。当家より父家親に参らせし秘蔵、他に異なりしが、重代のよしききたまひ、返し置れし太刀なれば、父上に添ひ奉ると思ひ身を離さず持きたりしが、死後には宗勝に参らする。後世弔ひてたまはれ……

※『児島常山軍記』より。

国平の太刀を宗勝に渡すと、鶴姫は城内に戻って自害したということです。

鶴姫・基本データ

生没:天文10年(1541年)生~天正3年(1575年)6月7日没か(享年33)
両親:父 三村家親/母 三好氏(正室)か
兄弟:庄元祐・三村元親・三村元範・上田実親・三村真経・楢崎元兼室・水野勝成室・石川久式室
伴侶:上野隆徳
子女:上野隆秀、男児
死因:自刃
法名:常鶴院超山本明信尼
墓所:常山城址

終わりに

武士の妻として名誉をまっとうした鶴姫(イメージ)

……室三村氏勇名あり。甲(よろい・かぶと)を擐し(身にまとい)白綾の鉢巻をしめ二尺七寸の国平の太刀を帯し白柄の長刀を提げ春の局(はるのつぼね)秋の局(あきのつぼね)以下青女房(侍女)三十四人を随へ(従え)城兵八十三騎と共に浦兵部丞宗勝(乃美宗勝)の陣中に突撃して奮戦し死する者多し。乃ち(すなわち)太刀を宗勝に貽(贈)りて後事を属し城中に入り従容として自刃す。年三十三。女房等皆之(これ)に殉ず。世に之を常山女軍(めのいくさ)と呼びて盛に其(その)勇烈を称す。洵(まこと)に非常時に於(お)ける婦人の亀鑑(きかん)と謂(言)ふべし……

※常山城「常山女軍之碑」より。

今回は、毛利の大軍を前に奮戦し、壮絶な最期を遂げた鶴姫の生涯をたどってきました。

もし乃美宗勝との一騎討ちが実現し、鶴姫が勝っていたら、戦局がどのように変わったのか、想像が尽きません。

画像 : 34基の『女軍の墓』wiki c Reggaeman

常山城址には鶴姫たちの供養塔が建立され、その遺勲を顕彰するため、令和の現代でも毎年供養祭が行われているそうです。

戦国時代に武勇を示した女性たちのエピソードは他にもあるので、改めて紹介したいと思います。

参考:
・岡山県高等学校教育研究会社会科部会歴史分科会 編『新版 岡山県の歴史散歩 新全国歴史散歩シリーズ33』山川出版社、1991年10月
・西ヶ谷恭弘 編『定本 日本城郭事典』秋田書店、2000年8月
文 / 角田晶生(つのだ あきお) 校正 / 草の実堂編集部

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