日本史において、戦いの様相を一変させた武器として真っ先に挙げられるのが、鉄砲、すなわち火縄銃です。
鉄砲は1543年(天文12年)8月、大隅国種子島に漂着したポルトガル人によって日本にもたらされたとされています。
この経緯は、江戸初期に成立した『鉄炮記』の記述を基礎としており、現在でも通説として受け入れられていますが、ポルトガル側史料の中には、1542年にすでに日本へ漂着していたとする記述も見られます。
その後、約30年の間に鉄砲は急速に普及し、戦国時代の主要な武器へと成長しました。
そしてその登場は、日本の合戦の在り方そのものを根底から変える、大きな転換点となったのです。
火縄銃の威力はどれほどのものだったのか

画像:種子島火縄銃(愛知万博のポルトガル館展示物)public domain
戦国時代の画期的新兵器である火縄銃の有効射程距離は、いったいどの程度だったのでしょうか。
火縄銃から放たれた鉛弾は、最大到達距離としては7〜800メートル程度に達したと考えられています。
しかしこれは弾道上の理論的な数値であり、実戦において人を狙い、致命傷を与え得た距離は、おおむね100メートル前後でした。
そして、この「100メートル」という距離は、合戦の様相を大きく変貌させたのです。
もちろん、火縄銃には欠点もありました。
その一つが、点火装置である「火縄」の扱いが難しかったことです。
さらに、いったん弾丸を発射すると、次の一発を撃つまでに手間と時間を要した点も大きな弱点でした。
当時の鉄砲は、弾丸を銃身の先端から装填する「先込め式」でした。
そのため、数回発射した後には、洗い矢を銃口から差し込み、銃身内にこびりついた火薬の残滓(ざんし)を掃除しなければなりません。
そのうえで、発射薬である胴薬と弾丸をあらためて装填する必要がありました。
また、先込め式である以上、こうした作業を行うためには銃身を立て、銃口を上に向けなければなりません。
しゃがんだり伏せたりした姿勢で行うことは困難で、どうしても敵に自分の身体を晒すことになります。
その結果、敵から銃撃や弓矢で狙われる危険性は高まりました。

画像:一列に並んで立射を行う足軽 public domain
それでもなお、こうした欠点を補って余りある存在として、火縄銃は戦国の戦いに革命をもたらした、まさに驚異的な新兵器だったのです。
火縄銃から放たれた弾丸は、弓矢の何倍ものスピードと威力があり、鉄や革の小札でつくられた甲冑を、十分に貫通し得る威力を持っていました。
火縄銃は、武士同士の白兵戦から、鉄砲足軽を主体とした集団戦へと戦国時代の戦法を変貌させていき、雑賀衆や根来衆などの鉄砲を主武器とする傭兵集団も生み出したのです。
火縄銃の弾丸に鉛が使われたのはなぜ

画像:彦根城における火縄銃釣瓶打の演武 public domain
戦国時代、火縄銃の弾丸には「鉛」が用いられるのが一般的でした。
実は鉛は、現代においても弾丸の主要な素材として使われています。
では、なぜ鉛が選ばれたのでしょうか。
それは、鉛がほかの金属と比べて比較的安価であり、融点が低く、切ったり曲げたりといった加工が容易だったためです。
さらに、その柔らかさゆえに、弾込めの際に銃身の内部を傷めにくいという長所もありました。
戦国時代の火縄銃の銃身内部には、現代銃のようなライフリングが施されておらず、いわゆる滑腔銃身でした。
そのため、鉛の弾丸は丸弾が用いられていたのです。
火縄銃は現代の銃と比べると口径が大きく、比重の重い鉛の丸弾を用いることで、弾丸を比較的遠くまで飛ばすことができ、高い殺傷能力を発揮しました。
加えて、戦場に落ちている弾丸を拾い集め、溶かして再加工すれば再利用することも可能だったのです。
このように鉛の丸弾は、扱いやすさとコスト面の双方に優れ、火縄銃の威力を最大限に引き出す素材であったといえます。

画像:火縄銃の一斉射撃を行う足軽部隊 public domain
しかし、戦国時代が終わり、江戸幕府が開かれると「諸国鉄砲改め」によって、銃の原則的な所持禁止や移動制限が定められ、新たな火縄銃の開発は次第に停滞していきます。
そして幕末になると、欧米から新式銃が流入・普及したことにより、火縄銃は急速に姿を消していくこととなったのです。
※参考文献
日本史深堀り講座編 『豊臣兄弟と天下統一の舞台裏』 青春出版社刊
文:高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
























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