「越後の虎」「越後の龍」「軍神」と呼ばれた男。
上杉謙信は戦国時代の戦場において天与の才を発揮した。さらには戦国の世を生きるには足枷となる「義」を大変重んじたことでも知られている。
だが、親が子を、子が親を裏切るような時代において、本当にそのような生き方ができたのだろうか?
上杉謙信の「義」を追ってみた
(生涯に数度改名しているが、混乱を避けるためにここでは上杉謙信で統一する)。
義
「義」という言葉は「人の行いが道理や倫理にかなっていること」を意味する。
「正しい行い」「損得を考えない行い」ということでもあるが、かなり漠然とした言葉だ。このままの解釈だと、人により「義」の定義が変わってしまう。
中国の孔子は「義を見てせざるは勇なきなり」と述べた。
「人の道として当然しなければならないのを知りながら、これを実行しないのは勇気がない」という意味である。
孟子は「仁は人の心、義は人の道」と説いた。
ここでも、義という言葉の本質が捉えきれない。
しかし、義の大切さが人々に広まったのは江戸時代になってからのことだった。武士道が確立され、そのなかに「義」が含まれると武士の行動規範として定着したのである。
この時代「義」という言葉には、人々の憧れがあったのだ。
では、謙信にとっての「義」とは何であったのだろう。
優しさと影
資料によると謙信はとても寛容な心を持ち合わせていたとある。
主君である謙信に対し2度も謀反を起こした家臣の北条高広を2度とも許し、帰参させている。また幾度も謀反を起こした佐野昌綱に対しても、降伏さえすれば命を奪うことはしなかった。
このような話は他にもある。しかし、逆の側面から見れば、こうも謀反が多いということは、謙信の脇が甘かったということではないか?
他の武将がどれほどの頻度で謀反を起こされたのかはわからないが、「義」が災いしたのかもしれない。
※上杉謙信像
一方で、規律を守るために疑いのある家臣対しては厳しい処罰を与えたという伝承もある。謀殺された者もおり、謙信の厳格な一面が見えた。
しかし、こうした影の一面を伝える話は近年ではその信憑性が問われている。
必ずしも、上杉方から流れ出た話ばかりではないし、後年になり敵対者が印象操作のために広めた可能性もあるからだ。
こうしたことから、少なくとも謙信は、部下に対して寛容な態度で接することが多かったことがわかる。これもまた戦国時代では珍しい。
大義名分
若くして、国内の混乱を平定し越後統一を成し遂げた謙信の生涯は戦いの連続であった。このとき、22歳である。
天文21年(1552年)1月、関東管領であった上杉憲政が戦に破れ上野国(群馬県)を追われた。憲政が謙信を頼り越後国に逃げ込んだことを皮切りに、領土奪還の大義名分の下、謙信の出兵が始まる。
関東管領とは関東を統括する職のことで、将軍により任命される由緒あるものである。
※川中島一帯
さらには甲斐の武田信玄らに攻め込まれた武将が次々と謙信に助けを求めると、それにも応じて見事その期待に応える戦いぶりを見せる。
この一連の戦いの中で、第一次川中島の戦いも行われたのである。その後も家臣の謀反や大事に、第二次以降の川中島の戦いなど、戦いに明け暮れた。
上杉憲政を助けたことで結果的に関東管領を譲り受けると、17回も関東に出兵し、相模国の北条氏、甲斐国の武田氏らと戦った。
相手を打ち破っても越後の領地とはせずに兵を退いたところからも、謙信が領土拡大に欲が無いことが分かる。
謙信の言葉に
『信玄の兵法に、のちの勝ちを大切にするのは、国を多くとりたいという気持ちからである。自分は国を取る考えはなく、のちの勝ちも考えない。さしあたっての一戦に勝つことを心掛けている』
とあるが、まさに有言実行の人物であった。
信仰と現実の狭間で
謙信が毘沙門天の熱心な信仰家だったことは有名である。
※多聞天像(東大寺金堂)
日本における毘沙門天は「戦いの神」である。
それと同時に多聞天として幸福の神としても信仰されてきた。日本独自の信仰として七福神の一尊として崇められる。
謙信は、幼い頃から禅を学び、上洛時には法名を受けたところから、実質的には出家していたといえよう。
あるとき、国民の離反や武田信玄との戦いに進展が見えないことに嫌気がさした謙信は、毘沙門天堂にこもるようになる。一説では部下の結束が緩み、小さないざこざが絶えないことに嫌気がさしたとも言われる。
ついには家臣に出家の意向を伝え、高野山を目指す謙信。しかし、旅の途上で家臣が追いつき必至に懇願した結果、出家を思いとどまった。その後は騒動も治まったことから、家臣の団結を強めるために行った計画的な行動だともいわれるが、嘘を嫌う謙信の性格からして、決意をもって旅立ったに違いない。
一方で、仏教では五戒により不殺生の教えがある。生き物を故意に殺してはいけないということだ。
ここに矛盾が生じる。仏教を信仰しながらも、軍神として戦いに生きる謙信という男。
もちろん、他の武将でも仏教を信仰するものはいたが、人一倍信仰心の強い謙信がなぜ教えに背いてまで戦ったのか?
謙信の義
関東や信濃への出兵は一定の戦果を残しているが、得たものはない。兵士の損出を重ね、資金面でも負担となった。
内政においては青芋の上方販売、佐渡の金山開発、湾岸都市の開発などを積極的に行い、領民の暮らしも悪くなかった。しかし、得るものもなく戦いを重ねていれば、配下の武将や豪族にとっては面白くない。そのため、度々国内での反乱に悩まされることになった。
しかし、戦いによって得るものとは目に見えるものだけではない。それを謙信はしっかりと得ていたのだ。
※「芳年武者旡類:弾正少弼上杉謙信入道輝虎(月岡芳年作)」
人々の信頼。すなわち謙信の義に対する評価である。
北条氏康は「謙信は一度請け負ったら、骨になっても義理を通す」と高く評価した。
信玄も死に際し、後継者の武田勝頼に「いざとなったら謙信を頼れ。あの男は頼めば嫌とはいわない」という言葉を残したと伝えられている。
敵対する有力な武将にここまで評価された人間はいない。
信仰に背いてまで戦い続けたのは、それよりも大切な思いがあったからだ。
非情な戦国の世で、困るもの、自分を頼るものは見捨てられないという思い。それは個人的な思いであり、家臣や配下の武将には無理をさせる結果となった。それでも貫いたのが謙信の義である。
本人は「義」など意識していなかった。そもそも義とは自分で口にするものではなく、周囲に認められてこそ得られるものだからだ。
最後に
謙信本人は意識せずとも、やはり「義」に生きた武将であった。それは謙信亡き後の上杉家にとって心の支えとなる。
徳川の世になり、米沢に転封後も存続できたのはそのためだ。
平和な現代に生きる我々でも、義に生きることは難しい。
それでも、その心だけでも忘れずに生きてゆこうではないか。
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