江戸時代、加賀百万石の大名として栄えたのが前田家である。
その礎を築いたのは戦国大名「前田利家」だったが、彼を語るに欠かせないのが妻「まつ」の存在であった。
12歳で前田家に嫁いだまつは、動乱の戦国時代において夫を支えながら、自らも御家のために困難を克服してきた女性である。
次々と降りかかる難題を乗り越え、前田家を守り抜いたまつの生涯を調べてみた。
前田利家の妻に
1547年(天文16年)、まつは尾張国の武将の娘として生まれた。
だが、幼くして父をなくしたまつは、4歳で前田家に引き取られ、当時14歳だった利家と出会う。若き日の利家は武芸に秀でている反面、喧嘩っ早く、彼の姿が見えた途端、通りから人通りが消えたともいわれている。
4年後、利家が織田信長に仕えることになると、同じ家臣であった木下藤吉郎と知り合う。後の豊臣秀吉である。
やがて、利家22歳、まつ12歳で祝言を挙げたのだが、その時の媒酌人となったのも藤吉郎とその妻「おね」だった。この四人は夫同士、妻同士がともに同世代だったということもあり、家族のような付き合いであったという。
【※前田利家】
結婚から4年後には、まつが長男「前田利長」を生み、その後も夫婦の間には11人もの子供に恵まれた。
しかし、木下家には子が生まれなかったため、前田家は四女の「豪」を養子に出している。
崩れゆく関係
主君である織田信長の天下統一への戦が激しくなると、利家と秀吉は良いライバルとして出世していった。
1573年(天正元年)から秀吉は、北近江、播磨、但馬を与えられ、やがては中国地方攻略の指揮を任される。一方の利家は能登21万石を任され、柴田勝家のもとで北陸地方の攻略に取り組むことになったのである。
同じ1581年(天正9年)には、長男の利長も越前府中の城主となり、前田家にとっては順風満帆といえる時期であった。
【※前田利長】
だが、その翌年に本能寺の変で主君の信長が自害すると、その仇を秀吉がとり、秀吉は柴田勝家と信長の後継者争いを行うまでに力を付けていた。
柴田勝家に服属していた前田家は難しい立場に立たされることとなる。
1583年(天正11年)、秀吉は「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」で柴田軍を破ると、そのままの勢いで北陸まで勝家を追討するが、利家は一度は柴田軍として秀吉との対決の道を選ぶも、結局は戦には参加することなく能登へと兵を退いてしまったのであった。
前田家、豊臣の家臣へ
勝家を追う秀吉の軍勢が迫り来るなか、利家には何も出来ないでいた。
しかし、利家の守る城へ入城した秀吉は、利家よりも先に台所にいるまつのところへ向かい、挨拶を済ませると、養女としたお豪の成長を話して聞かせた。
それに対して、まつも秀吉の勝利を祝う言葉を贈り、両家の絆が健在であることを確かめ合ったのである。これを受けた秀吉は、合戦に勝てたのも利家が兵を退いてくれたおかげであり、これから早速、勝家の城を攻めるのに加わってもらいたいと口にした。
秀吉が、事を荒立てることなく前田家との関係を修復するチャンスを提示したことを悟ったまつが、機転を利かせてそれに応じた結果である。
このときから、利家と利長は秀吉の家臣となり、加賀と越中を与えられて「加賀100万石」の礎を築くことになる。さらに大坂に聚楽第(じゅらくてい)が完成すると、利家とまつは秀吉の住むすぐ隣に屋敷を与えられ厚く迎えられたのだ。
1590年(天正18年)の小田原攻めでは、徳川家康と共に勝利に貢献したことで、二人は東北の諸大名をとりまとめる役を任されるようになっていた。しかし、1593年(文禄2年)、秀吉に嫡男である秀頼が誕生すると、秀頼を生んだ側室の「淀殿」がその発言力を強めるようになり、秀吉と利家の関係にも影響を与え始めたのである。
豊臣恩顧の大名の中に反感が生まれ始めた。
秀吉と利家、没す
1598年(慶長3年)、病に伏した秀吉は諸大名に遺言を伝えたが、その中でも家康と利家には「二人で秀頼を支えてやって欲しい」と強く言い残し、この世を去った。
一方で、秀吉亡き後、側室であった淀殿が権勢を振るうことは明らかであり、まつはそのことを心配していたという。
そして、その不安は的中し、後に豊臣家の滅亡へとつながってゆく。
【※秀吉の側室であった淀殿】
さらに秀吉の後を追うように、利家もまた病の床に伏せることが多くなった。
それでも、秀頼の守役を忠実に守る利家は、幼い秀頼を京都伏見城から大坂城へ移そうとするが、それに異を唱えたのが徳川家康であった。
この頃の家康は、秀吉の遺言を守らぬばかりか、勢力拡大を図り、好き勝手な振舞いをしていたのである。それに対し、利家と利長は秀頼を大坂城に移すことで対抗して見せた。さらに、利家は息子の利長に、自分は家康と刺し違える覚悟もあり、もし自分が斬られるようなことがあれば、秀頼のことを任せると語っている。
しかし、1599年(慶長4年)、天下人の跡を継ぐ秀頼の姿を見ることなく、利家は63歳でこの世を去った。
前田家最大の危機
利家の死後、諸大名の力関係は崩れ、徳川家康が唯一の実力者となる。
さらに、家康の策略もあって、秀頼を守る立場のはずだった他の武将たちも内部抗争に走るようになってしまった。
父亡き後の前田利長は、大坂城で豊臣秀頼を守っていたが、それにも家康は狙いを付けてくる。前田家の名のもとに豊臣恩顧の武将たちがまとまる可能性があったためだ。
そこで家康は利長に「大坂城を出て加賀へ戻られてはどうか」という内容の手紙を送り、遠まわしな言い方をしつつも、利長に対する脅迫を行ったのだ。つまり、従わなければ、前田家は徳川の敵と見做す、と。そこで利長は母のまつにこのことを相談する。
まつの答えは家康に従い加賀へ帰るよう促すものであった。
それも仕方がない。前田家100万石に対して、家康は250万石。もし戦えば勝てる相手ではなく、また戦国の世に逆戻りしてしまうこともありうる。
まつの言葉に従い、母だけを伏見に残して加賀へと帰った利長であったが、家康はさらに前田家を追い詰めるべく次の一手に打って出た。
利長が家康の殺害を企てたとして、前田家征伐の準備を始めたのだ。1599年(慶長4年)9月のことである。
まつの決断と加賀百万石の存続
そのことを耳にした利長は、すぐに家康のもとへ使者を送り、事実無根であることを訴えた。だが家康は、本当に無実だというのであれば、証拠としてまつを人質に差し出すように答える。この答えに利長は窮した。母を人質に差し出すというのは、合戦に敗れたものが服従の証として行うことであり、到底受け入れられない。
合戦もやむなしと、利長は家康との交渉に並行する形で、城の改修工事を始めた。
そして、その知らせはまつの元にも届いていたのである。
まつは、利長からの使者に人質になることを告げ、江戸に向かう決意をした。それは、利長に対し「すでに天下は徳川のものであり、無闇に抗って前田家を危機に曝すようなことは避けるように」とのまつの諭しであり、前田家は徳川に忠誠を誓うことの証となる。
1600年(慶長5年)5月17日、まつは江戸城へと旅立った。
関ヶ原の戦いが起き、家康が天下人となったのはその4ヵ月後のことである。まつは最後まで前田家存続だけを考えていたのだった。
【※利家の死後、出家して芳春院(ほうしゅんいん)を名乗ったまつの石碑】
最後に
まつが家康の人質となったことで、徳川が関ヶ原の戦いにおいて勝利できたといっても過言ではない。
前田家が徳川に臣従するということは、豊臣方の諸大名にとってはそれほど大きな衝撃を与えたのだ。もし、前田家がまつを差し出さなければ、石田三成率いる西軍の戦力はより強固なものとなり、戦乱は長引いたであろう。まつの行動により、平和な時代の到来が早まったことは間違いない。
その後のまつは、大坂の陣で豊臣家が滅び、息子の利長が亡くなった後にこの世を去った。
享年71。
大名の妻として、そして母として、陰ながら前田家を守り抜いた生涯であった。
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