四天王の筆頭
酒井忠次(さかいただつぐ)は徳川家の譜代の家臣として、家康の父・松平広忠の時代から二代にわたって仕えた武将です。
徳川四天王と並び称される本多忠勝、榊原康政、井伊直政のなかでは最も年長者であり、家康が今川家の人質であったみぎりから付き従った家臣でした。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いの後には、徳川家の家老に任じられる程に重用された人物で、殊に天正13年(1585年)に石川数正が豊臣秀吉の許へと出奔した後には、重臣の筆頭に数えられました。
酒井忠次 の武勇
忠次は、大永7年(1527年)に松平氏の家臣・酒井忠親の次男として生まれました。
家康が天文11年(1543年)の生まれににつき、16歳程年長となります。
忠次は武勇に優れ、弘治2年(1556年)に織田氏の猛将・柴田勝家に攻められた際にも、これを退けたと伝えられています。
また、武田信玄の西上作戦による侵攻で、徳川勢が敗北を喫した元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いでも、数に劣る徳川勢の中にあって、武田勢の小山田信茂と対峙してこれを破る奮闘を見せました。
信長からの称賛
忠次の数ある武功の中でも特筆すべきものが、天正3年(1575年)の長篠の戦いです。
ここで忠次は別動隊を率いると、武田勝頼の背後に回り込んで鳶巣山砦への攻撃を成功させ、これを陥落させることで味方の長篠城の包囲を解き、更に勝頼の叔父にあたる河窪信実等を討ち取ったとされています。
このときの忠次の働きぶりは徳川だけでなく、織田信長からも「背に目を持つ如し」とその変幻自在な用兵への称賛を受けたと伝えられています。
信長への弁明
忠次と信長の逸話として伝えられているものに、天正7年(1579年)の家康の長男・信康の弁明の使者となった件があります。
これは、家康の正室・築山殿と信康が武田に内通しているという嫌疑を信長に持たれ、その弁明の使者として、大久保忠世と共に安土城に赴いたとされるものです。
このとき忠次は信長に馬を献上しつつ、信康についての弁明を行いましたが、果たせず結果信康は切腹に処されることとなりました。
前述の徳川四天王の中で、酒井家に与えられた関ケ原の後の領地が最も少ないことから、この時の信康の弁明が功を奏さなかったことに対し家康が不快感を抱いていたとする説もあるようです。
しかし、その後の酒井家の存続や忠次の貢献からは的外れなものと言えそうです。
森長可を破る
忠次はその後の天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにおいても、豊臣方の猛将・森長可を破るなど、晩年にも果敢な戦働きをみせました。
しかし、決して武勇のみではなく、場を和ます人物でもあったようです。
どのような踊りか定かではありませんが「海老すくい」という踊りを得意として、宴席などで披露したと伝えられています。
しかし、天正16年(1588年)に長男・家次に家督を譲ると隠居をしました。そして慶長元年(1596年)京にて享年70で世を去りました。
時代はまだ秀吉の治世であり、家康の天下を見ることはなかった最期でした。
後に子の家次は下総臼井藩3万石を経て越後高田藩10万石へと加増・移封され、更に酒井家は出羽庄内藩17万石へと加増をされました。
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