今川義元の右腕
太原雪斎(たいげんせっさい)は、戦国時代の今川家に仕えた臨済宗の僧侶で且つ武将、今川家の最盛期を支えた人物です。
僧侶でありながら武将でもあるという点では、後の安国寺恵瓊や前田玄以などの存在もありますが雪斎は政治から外交、合戦まで担い、今川義元の右腕・軍師格の武将として活躍しました。
桶狭間の戦いの時に存命であれば、義元が討たれることは無かったのではないかとまで後世に語られた、太原雪斎について調べてみました。
義元の教育係へ
雪斎は明応5年(1496年)に今川の家臣で庵原城主をつとめた庵原政盛の子として生まれました。
雪斎は9歳になる頃に出家すると、駿河の善得寺に入ったとされています。この当時雪斎は名を九英承菊と称したと伝えられています。
その後、京の建仁寺で修行を続けましたが、学問に非凡な才を発揮して、その名は国元の主君・今川氏親の耳にも届いたとされます。氏親は自身の五男・方菊丸(後の今川義元)の教育係を務めるよう雪斎に要請し、雪斎は当初これを断っていたものの、最終的には了承して駿河に戻りその任に当たりました。
当時の義元は五男という事もあり、大永5年(1525年)に6歳にして仏門に入れられ、雪斎の教育を受けながら善得寺に身を置いたとされています。
義元の家督相続
大永6年(1526年)に氏親が死去すると義元の兄・氏輝が家督を継承しました。しかし天文5年(1536年)に氏輝も急死する事態が発生しました。同日に氏輝の次弟・彦五郎も死亡しました。2人の死には諸説がありますが、氏輝に息子がいなかっいたことから、今川家の後継を争う花倉の乱が起こりました。
雪斎らは義元を還俗させてここで正式に義元を名乗らせ、隣国の武田信虎とも結んで今川家の当主に就かせようと動きました。
このときの争いは、義元の異母兄・玄広恵探と義元との間で争われましたが、雪斎が花倉館に籠城した玄広恵探を攻め、自刃させたものと伝えられています。
こうして家督を継いだ義元は、雪斎に厚い信を置き、以後の政治や軍事の中心的存在として今川の全盛期を築いていくことになりました。
甲駿同盟の締結
雪斎は先ず今川家の領国の安定化のため、北側に位置する甲斐の武田氏との関係改善を進めました。ここで雪斎は政略婚姻を手法として用いています。
雪斎は、天文6年(1537年)に義元の正室として武田家当主・信虎の娘との婚儀を成立させました。続いて信虎の長男・晴信(後の信玄)には、京の公家・三条公頼の娘を周旋して正室に迎えさせています。これらの婚儀によって甲駿同盟と呼ばれた武田との同盟関係を成立させました。
これにより、天文14年(1545年)の北条氏と争いの際に、武田氏と連携して対処することになりました。以後も雪斎は今川家の多数の戦に従軍して、武功をあげています。
天文17年(1548年)に発生した織田信秀(信長の父)との小豆坂の戦いでは見事これを破り、翌天文18年(1549年)には織田方の三河・安祥城を攻めて織田信広を捕えると、織田家に捕えられていた人質・松平竹千代(後の徳川家康)との人質交換を成功させました。
黒衣の宰相 太原雪斎
こうした今川の武将として貢献を重ねた雪斎ですが、天文14年(1545年)には駿府において臨済寺を建立、自らも2世住持を務め、続く天文19年(1550年)には京の妙心寺の第35代住持も勤めるなど僧侶としても精力的な働きをみせました。
巷説として雪斎の名声を高めたものに「善得寺の会盟」と呼ばれる外交があります。今川、北条、武田の三者間での同盟の締結を目指して、今川義元、北条氏康、武田晴信の3人を一堂に会す機会を設け「甲相駿同盟」の3国同盟を結ばせたというものです。
しかしこれは「甲相駿同盟」が締結されたことは史実であるものの、3人の戦国大名が集結して会談を持つという事自体、当時の習わしから考えてもあり得ないものとして、後世の創作であると考えられています。
雪斎は義元が桶狭間で討たれる5年前の弘治元年(1555年)、享年60で世を去りました。
今川家を有力な戦国大名に押し上げたその手腕は、後年「黒衣の宰相」とも呼ばれることになりました。
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