信長の才能を見抜いていた 朝倉宗滴
朝倉宗滴(あさくらそうてき)は元の名を教景(のりかげ)といい、越前の戦国大名・朝倉氏を三代にわたって支えた武将です。
その武名は遠く他国にも知られ、戦国大名としての朝倉家の地位を盤石なものとした猛将でした。
この時代としては異例な長寿で79歳まで生きたとされる宗滴は、天文24年(1555年)に没しましたが この頃既に、当時まだ若かった織田信長の才に着目していたとされており、その様子を見届けられないことを悔やみつつ亡くなったと伝えられています。
謀反の密告
宗滴は文明9年(1477年)もしくは、文明6年(1474年)頃に越前の守護大名であった朝倉孝景(たかがげ)の八男として生まれました。
父の孝景も応仁の乱や長禄合戦などで多くの武功をあげた、武勇軍略魅力に優れた名将でした。
宗滴は文亀3年(1503年)、敦賀城主を務めていた義兄・朝倉景豊の謀反を朝倉宗家の当主・朝倉貞景に知らせたことを認められて金ヶ崎城主となり、敦賀の郡司へと就くとともに、これ以降朝倉家の軍事に関わる一切を担うことになったと伝えられています。
一説には宗滴自身も元々は謀反に加担し、下克上を企てていたとも言われていますが定かではありません。
九頭竜川の戦い
宗滴の武勇を知らしめた最も有名な合戦が、永正3年(1506年)に一向一揆勢との間で行われた九頭竜川の戦い(くずりゅうがわのたたかい)です。
このとき敵の一揆勢の兵力は20万〜30万もの数だったとされており、対峙した宗滴らの軍勢はおよそ1万ほどと、数十倍もの開きがあったとされています。
話半分と見た上で、また宗滴らは武士の集団だと考えても、数倍の兵力差であったものと思われます。
この合戦で宗滴は、寡兵にも関わらず夜間に渡河して急襲を賭けるという用兵で、一揆勢を加賀まで引かせたと伝えられています。
室町幕府への貢献
宗滴は、永正14年(1517年)には室町幕府の命を受けて、若狭で起こった反乱の制圧に出陣し若狭守護・武田氏を救援しています。
また、大永5年(1525年)には美濃への介入を図った北近江の浅井亮政の抑制のため、六角氏と共同で浅井氏の居城・小谷城へと出陣しています。
敵として出陣したにも関わらず、浅井氏と六角氏の調停を成功させたことで、浅井氏とは以後も続く協力関係を構築するなど、武だけではなく折衝・外交の才にも秀でていたとされています。
更に宗滴は、大永7年(1527年)に当時近江にあった12代将軍・足利義晴と管領の細川高国の意を受けて京へ兵を向け、敵の三好勢を川勝寺口の戦いで破るなどの武功を挙げています。
死の直前まで出陣
驚くべきは、宗滴は死の直前まで合戦に出陣していたと伝えられていることです。
宗滴は天文24年(1555年)7月に上杉謙信の呼びかけに応じて、加賀の一向一揆勢の討伐にために出陣しました。
このとき宗滴の軍勢は加賀へ侵攻すると、一揆勢の3つの城を1日で陥落させたと伝えられています。しかし翌8月には一揆勢も逆襲に転じ、そのまま膠着状態に陥ったとされています。
宗滴はこの陣の最中に病を得て、朝倉の本拠地・一乗谷に戻ると翌9月に病没しました。
この時に冒頭の信長の行く末を見届けられないことを悔やんだとされています。
朝倉家の滅亡
宗滴が没した18年後の天正元年(1573年)8月、奇しくも信長の手によって戦国大名としての朝倉家は滅亡することになりました。
宗滴の在りし日には周辺諸国への抑制が成されていたものが、その存在を失ったことで急速に求心力を無くし、家中での争いや一揆勢の増長などを招き、朝倉家の勢力が著しく衰退した結果でした。
一時は包囲網によって信長を中地に追い込んでいただけに、その時の指揮を宗滴が採っていれば結果はかわったかもしれないとすら感じられます。
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