伊藤一刀斎とは
人気漫画「バカボンド」にも登場する一刀流の開祖にして、謎の多い生涯や数々の伝説がある剣豪が伊藤一刀斎だ。(※伊東とも)
ただひたすらに己の剣を極め続けた伊藤一刀斎の師は、佐々木小次郎の師とされる鐘捲自斎(かねまきじさい)である。
生涯住居を構えず剣の勝負に明け暮れ「剣鬼」と呼ばれた破天荒な剣豪・伊藤一刀斎について追っていく。
伊藤一刀斎の生い立ち
伊藤一刀斎は生まれや国がはっきりしておらず、生年は天文19年(1550年)とも永禄3年(1560年)ともされている。
生まれも伊豆大島、伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)、近江国(現在の滋賀県)、加賀国金沢(現在の石川県金沢市)、越前国敦賀(現在の福井県敦賀市)など幾つも説があるが、一般的には伊豆大島で天文19年(1550年)伊藤弥左衛門の子として生まれる。
幼名は前原弥五郎と称した、生来身体が大きく筋骨隆々で身体能力が高く俊敏性も持ち合わせていた。
性格は粗暴で小さい時から始末に負えない乱暴者であった。
14歳になった一刀斎は剣術で名前を残そうと一念発起して伊豆大島を出た。
その手段はなんと板1枚を抱えて海に飛び込み、泳いで静岡県の三島まで渡ったとされている。
これは本人が弟子たちに自分を大きく見せるために嘘をついたのか、弟子が一刀斎の死後に伝説化するために尾ひれがついた話なのか、真偽は不明である。
一刀斎は三島神社の床下に住み着いて修行した。ボロボロの服を着た大男が木の上を飛び回りながら剣術の稽古をしたので、近所では天狗が島から舞い降りたと噂になったという。
そんな時、三島に「名人越後」の名で知られる富田流の富田重政の門人である冨田一放という剣術者がいることを聞きつけて一刀斎は勝負を申し込む。
派手な装束の富田一放と、ボロの少年であった一刀斎との対決は、飛び込んだ少年の一撃で決まってしまう。
立会人を務めた三島神社の神官・織部は感心して神社に伝わる刀を授けた。
ある晩、織部の屋敷を盗賊数十人が囲むと一刀斎はこの刀で7人を斬り、瓶の後ろに隠れた賊を瓶ごと斬ったことからこの刀は「瓶割刀」(かめわりとう)と名がついたという。
この刀は一刀流の宝刀として、代々一刀流の宗家に受け継がれる。
鐘巻自斎との出会い
その後、一刀斎は師を求めて江戸に向かいl富田流門下である鐘捲自斎道場の門下生となる。
鐘捲自斎は富田流を学び、中条流の流れも組む流派であったが、そこで一刀斎は小太刀や中太刀の術を学んで5年で門下生の中で1番強くなった。
一刀斎は「私はこの流派の妙所は会得したので、お暇をいただきます」と自斎に言うが、「そんな短期間に出来るはずがない」と自斎が怒って暇を認めなかったので、二人は勝負をすることになった。
一刀斎と自斎は木刀に手に3度立ち会うも3度とも一刀斎が勝つ。しかも自斎は手も足も出ないほどの完敗であった。
自斎が一刀斎に「何故私の太刀筋が分かる」と尋ねると一刀斎は「先生が私を打とうすると私の心にそれが映る、ただそれに応じただけ」と答えた。
鐘捲自斎は自流の極意「一妙剣・絶妙剣・真剣・金翅鳥王剣・独妙剣」を授けて快く一刀斎を送り出した。
一刀流の開眼
鐘捲自斎のもとを出た一刀斎は、次に外他道宗(とだどうしゅう)から判官流を学んだが、ここでもあっという間に奥義を悟り道宗のもとを去る。
その後も山にこもっての修業や武芸者との勝負を続け、いつしか自分の名前を「伊藤一刀斎」と名乗り、自らの剣を一刀流とした。
そして、数多の武芸者との勝負をするために諸国を巡る旅に出る。
相模では中国船が来航しており、その功夫の中に武術の使い手がいて対戦相手を求めていた。
見たこともない術を使う中国人を恐れて対戦者は出なかった中、一刀斎は「扇一本で勝負してやる」と言って打ち負かしてしまった。
このようにして徐々に一刀斎の名前は有名になっていき、次々と挑戦者が現れるようになっていく。
一刀斎に負けた者が恨みを抱いて闇討ちをかけることも多く、中には愛人を使って寝込みを襲われることもあったという。
一刀斎は生涯居を構えずに旅籠に泊まっては「天下一剣術之名人伊藤一刀斎」と書いた札を掲げて勝負を重ねていく。
その数は真剣勝負33回、凶敵を倒すこと57人、木刀で打ち伏せること62人に及んだ。
その戦いの間、鶴岡八幡宮にこもって修業していた時に、何か怪しい気配を感じた一刀斎は刀でその気配を斬った。
その瞬間に一刀流の奥義「夢想剣」を開眼したとされている。
破天荒な剣豪
戦国時代の剣豪たちは、自分の名前を知らしめてどこかの領主や大名家に仕官する者がほとんどであった。
一刀斎の名前も全国に知れ渡り、織田信長や徳川家康から声が掛かるも、一刀斎はその話を断ってしまう。
理由は誰にも仕えることなく、縛られることを嫌い、旅から旅の自由な暮らしをしたいからだった。
一刀斎に勝負を挑み負けた者の中には一刀斎の弟子になる者がいて、その中でも秀でていたのは小野善鬼と小野忠明だった。
高齢になった一刀斎は弟子の二人に真剣勝負をさせ「勝った者に一刀流を相伝する」と言った。
この勝負に勝った小野忠明に一刀流の伝書と宝刀の「瓶割刀」を授ける。
その直後に一刀斎は姿を消してしまい、小野忠明もこの後一度も会うこともなく、一刀斎の消息はまったく分からなくなってしまったという。
消息については、忠明に勝たせたかった一刀斎が助太刀に入って善鬼に殺されたという説、2人で善鬼を倒した後に忠明に殺された説、94歳まで生きていた説、など破天荒な剣豪の最期は様々な憶測を呼んだ。
一刀流を継いだ忠明は、後に徳川2代将軍・秀忠の剣術指南役として、柳生宗矩と共に召し抱えられる。
一刀流はその後、忠明の弟・伊藤忠也の伊藤派一刀流と忠明の3男・小野忠常の小野派一刀流に分かれる。
その後、小野派一刀流には多くの有能な門弟たちが現れ分派していき、北辰一刀流や中西派一刀流など多数の流派が育っていく。
そして一刀流は、現代剣道のルーツと呼ばれることとなるのである。
おわりに
伊藤一刀斎は生まれから最期まで謎に包まれたまさに「伝説の剣豪」であった。
自由気ままに暮らし、ただひたすらに剣の道・勝負の道を極めるために相手を探し、相手を倒し続けたこの男こそ真の剣豪だったのかもしれない。
塚原卜伝や上泉信綱は「剣聖」と称されるが、伊藤一刀斎の剣一筋に生きた姿は「剣鬼」と称されたのだ。
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