立花道雪とは
大友宗麟に仕えた立花道雪(たちばなどうせつ)こと戸次鑑連(べっきあきつら)は、その誉れ高い武勇により武田信玄が対面を希望したという逸話がある武将である。
生涯37の大きな戦に参戦し、37勝と負けなしであり、雷を斬って半身不随となるも輿に乗って戦場を駆け巡ったという伝説を持つ武将である。
群雄割拠の九州大名や、毛利元就と三人の息子たちとも互角に戦った雷神・立花道雪について追っていく。
生い立ち
立花道雪(たちばなどうせつ)こと戸次鑑連(べっきあきつら)は永正10年(1513年)九州の豊後国大野郡(現在の大分県豊後大野市)鎧岳城主・戸次親家の次男として生まれる。兄が早世したために嫡男として育てられた。
母は幼い時に亡くなり、父も病床にあったために継母に育てられる。
大永6年(1526年)若干14歳の時に自ら志願して2,000の兵を指揮し、5,000の大内氏の軍勢を相手に金の指揮旗を振って降伏同然の和睦を引き出した。3人の老臣が補佐したとは言え、なんとこれが道雪の初陣であった。
その直後に父・親家が死去して道雪は元服し、戸次家の家督を継ぐ。
家督相続後は大友義鑑に仕えて、後にその諱を賜って鑑連に改名する。
道雪のこの頃の名は戸次鑑連(べっきあきつら)だが、この記においては道雪と明記する。
その後も肥後国人の乱や秋月文種の謀反を鎮圧して武功を挙げた。
二階崩れの変
天文19年(1550年)2月、主君・大友義鑑が嫡男・宗麟を廃嫡にして三男・塩市丸を後継者にしようとしたお家騒動が起きる。
宗麟派の家臣が屋敷の2階に寝ていた義鑑と塩市丸を襲い殺害してしまうのだ。(二階崩れの変)
この時、道雪は宗麟方につき家督の相続に尽力して反宗麟派の武将を討伐して宗麟の重臣の1人となる。
天文22年(1553年)41歳となった道雪は養子を迎えて戸次家の家督を譲るが、実際には隠居は許されずに宗麟の片腕として前線で働く。
雷神伝説
天文17年(1548年)6月5日、道雪が大木の下で昼寝をしていると、突然夕立が降り出して雷が鳴り稲妻が道雪めがけて襲って来た。
そこで愛刀・千鳥を抜き稲妻を一刀両断にしたが、下半身不随となったものの一命を取り留めたことから「雷神の化身」と噂されるようになる。
愛刀・千鳥には雷に当たった印があったために、それから愛刀を「雷切」と呼んだ。
そんな大ケガを負ったにもかかわらずに、以後の戦では6人担ぎの輿に乗って2尺7寸(約82cm)の刀と鉄砲1挺と長さ3尺(約90cm)の手棒を側に置いて敵が近づくと手棒で叩いて「えいとう、えいとう」と大声で音頭を取って敵陣に突っ込ませたという。
そんな道雪は敵から「鬼道雪」と呼ばれ恐れられた。
毛利との戦い
立花道雪は大友宗麟の重臣として北九州を転戦、特に博多港を狙う毛利元就との抗争に尽力している。
弘治3年(1557年)毛利元就に通じた秋月文種を自害させた。
永禄3年(1560年)秋月氏とともに離反した宗像氏貞を攻め、永禄4年(1561年)毛利元就と門司城の戦いで争う。
この働きによって道雪は宗麟の補佐役である加判衆となり、筑後国方分・守護代となる。
永禄5年(1562年)宗麟が剃髪したのにならって道雪も剃髪し、麟伯軒道雪と号した。
永禄10年(1567年)道雪が自害に追い込んだ秋月文種の子・種実が毛利家の支援を受けて挙兵する。
この争いで多くの家臣を失ったことから、大友家に不安を感じた原田隆種や宗像氏貞、立花鑑載らが再び離反して約3か月にも及ぶ戦となる。
しかし道雪はそれらの勢力を打ち破り、筑前の反対勢力を一掃して北九州の東半分を掌握した。
独自の戦法
宗麟は5万の軍勢で肥前・龍造寺隆信討伐を開始するが、援軍の毛利家の小早川隆景や吉川元春らが来襲してきて激しい戦となる。
この時、道雪は鉄砲800挺を2隊に分けて道雪が発案の「早込」という1発分の火薬を詰めた竹筒の束を鉄砲隊の肩にかける工夫で「二段射撃」する戦法を指揮する。
また、槍隊の後に騎馬隊が敵に突撃する「長尾懸かり戦法」を用いて小早川軍を撃破している。
この戦いは本国を尼子らに攻められた毛利軍が北九州から撤退する永禄12年(1569年)11月まで続くが、道雪はようやく要の立花城を奪城する。
永禄13年(1570年)からは、再び龍造寺隆信討伐の軍に加わっている。
このような長年の功績によって宗麟から筑前の守護職を任命された。
そして、宗麟は道雪に立花家の名跡を継承させて立花山城督を命じる。
しかし、道雪は2度も裏切った「立花」姓を嫌い、戸次道雪という名で生涯を終えている。
島津との戦い
天正6年(1578年)宗麟は道雪の反対を押し切って、薩摩の島津討伐のために日向へ侵攻した。(耳川の戦い)
反対した道雪が従軍していなかったこともあり、大友軍は大敗して多くの有力武将と多数の兵力を失ってしまい、家臣たちの離反が相次いでしまう。
多くの家臣を失った宗麟への反発からさらに多くの家臣が大友家を離れていくが、道雪は変わらず主君に忠節を誓った。
天正9年(1581年)70歳を迎えて嫡男や養子がいなかった道雪を心配した宗麟は、戸次家から養子を貰って立花の家督を譲るように薦める。
しかし、道雪は戸次家ではなく、歴戦を共に戦ってきた高橋紹運の長男・高橋宗茂を養子に迎えたいと紹運に何度も頭を下げた。
そして道雪の娘・誾千代と宗茂が結婚して立花宗茂と改名して立花城督となった。
後に豊臣秀吉から西国一の猛将と言われたあの立花宗茂である。
立花道雪の最期
この後も高橋紹運や宗茂らと共に戦を重ねるが、天正13年(1585年)9月、柳川城攻めの陣中で病に倒れてしまう。
遺言として「私が死んだら甲冑を着せて敵の方へ向けて埋めろ。これをしないと祟るぞ」と言い残したという。
道雪は半身不随となっても大きな戦37回を全て勝ち、小さな戦は100回以上もあったが、道雪が直接指揮した戦は負けなしの戦上手であった。
「勇将の下に弱卒無し」をモットーとして戦う、これは言葉通りに取ると「大将が強ければ下の兵士が弱い訳は無い」となるがそうではない。
「弱い兵士は上の大将の責任だから兵士は気にしなくていいよ」という意味で、それを理解している家臣たちから本当に慕われたから強かったのだ。
享年73歳、戦にまみれた生涯を終えた。
おわりに
戦をした敵将たちは「立花道雪は素晴らしい武将だ」と絶賛した。
道雪の武勇を聞いた武田信玄は「道雪と一度戦って互いの戦の技を競いたかった」と対面を希望したという逸話もある。
豊臣秀吉が九州を平定するまで九州全域は群雄割拠の状態だったが、道雪を軍師として力を得た大友宗麟は九州の六ヶ国を支配するまで領土を広げた。
その後、大友宗麟は道雪の進言を聞かず島津との戦いで大敗し勢力が弱まってしまったが、最後まで主君に忠節を尽くしたまさに雷神のような武将であった。
この人、立花宗茂の奥さん・立花誾千代のお父さんだよね。
だから誾千代は加藤清正をビビらせたのか。