甲斐宗運とは
九州の阿蘇氏に仕えた、生涯60戦無敗の軍師が甲斐宗運(かいそううん)である。
薩摩の島津から「宗運のいる限り肥後に侵攻できぬ」と言われるほどの武略、知略を持って島津の侵攻を食い止めた武将だ。
お家のためには実の息子も殺した非情の軍師・甲斐宗運について追っていく。
生い立ち
甲斐宗運(かいそううん)は九州の肥後国(現在の熊本県)阿蘇神社の大宮司・阿蘇惟豊の重臣・甲斐親宣の子として永正5年(1508年)または永正12年(1515年)に生まれる。
父・親宣は阿蘇家のお家騒動で惟農を支えた功で阿蘇家の筆頭家老を務める。
阿蘇家の家臣たちから「親宣殿がいないと何も決まらない」と称されるほど信頼のおける重臣であった。
そんな父を見て育った宗運は元服して親直(ちかなお)と名乗る。
当時の九州は肥前国(現在の佐賀県)の龍造寺家、豊後国(現在の大分県)の大友家、薩摩国(現在の鹿児島県)の島津家の3強が勢力争いを競っていた。その他の勢力はこの3強のどこかの傘下につくことで生き残りをかけていた。
特に宗運がいる阿蘇家は肥後国(現在の熊本県)にあったために3強に挟まれて、近隣の国人衆への内通工作(裏切りなど)などが盛んに行われていた。常に戦が起こるという戦国時代の真っ只中であった。
大永3年(1523年)宗運は菊池武包との争いで父と共に出陣して初陣を飾り、その武功によって800町の領地を与えられている。
父の死後、家督を継いだが、天文10年(1541年)阿蘇家に従っていた御船城主・御船房行が島津家に内通して阿蘇家に反旗を翻す。
この木倉原の戦いで多数の首級を討ち取り、御船城を占拠する。
甲斐宗運の城 御船城です。 pic.twitter.com/zSGR32Xz72
— Crea (@crea_ga) November 1, 2015
その戦功として1,000町の領地と御船城を与えられて城主となった。
この頃、出家して宗運と名乗るようになる。
3強に挟まれて
天文15年(1546年)宗運の娘婿・隈庄守昌が島津家に内通していることが発覚すると、宗運はお構い無しに攻め立てて、3年後の天文18年(1549年)には隈庄城を攻め落とし、一族を誅殺してしまう。
このことで宗運は阿蘇家に背く者は徹底的に成敗する、阿蘇家の忠実な軍師として知られていく。
しかし大友家との協力体制を続けていた阿蘇家内部でも、内通工作を行う者が頻繁に現れるようになってくる。
内通が発覚する度に宗運は派遣され、相手が旧知の仲でも容赦はしなかった。
宗運が指揮した戦は鮮やかな勝利であったために、島津家は「宗運がいる限り、肥後への侵攻はできぬ」と称し、宗運は他家から恐れられる存在となった。
非情の軍師
天正6年(1578年)耳川の戦いで大友家は島津家に大敗して、九州の3強のパワーバランスが崩れてしまう。
肥後国の国人衆の多くは島津家や龍造寺家へとつくことになるが、宗運は大友家との同盟を頑なに維持しようとしたため、阿蘇家の中で動揺が広がる。
そんな中、宗運の次男・三男・四男が他家への内通を図っていることが発覚する。
それを知った宗運は次男を誅殺、逃げようとした三男を捕まえて殺し、四男だけは何とか逃亡した。
実の息子であっても非情な処分を下す宗運を恐怖に感じた長男・親英(ちかひで)は宗運の排除を画策する。
しかしその目論見は失敗に終わり、宗運は親英をも殺そうとするが、嫡男であったため家臣たちから激しく止められて「二度と逆心はしない」と誓紙を取って許した。
且過瀬の戦い
大友家が弱体化したために、天正8年(1580年)龍造寺家に従属した国人衆(隈部親永、合志親為、河尻氏、鹿子木氏)と、島津家に従属した国人衆(名和顕孝、城親賢)の連合軍が阿蘇家に侵攻してきた。
宗運は8,000の兵を率い、白川且過瀬を挟んで対峙した。(且過瀬の戦い)
間者の報告で、降雨のために油断した隈部勢が酒盛りをしていることを知ると、宗運はこれを強襲して大勝利を収める。
しかし、大友家の衰退が進んだために、天正9年(1581年)ついに宗運は大友家を見限り龍造寺家に臣従した。
この頃、阿蘇家と同盟関係にあり宗運と親しい間柄であった相良義陽(さがらよしひ)が島津家に臣従し、島津家の命令で阿蘇家に侵攻してきた。
島津家に従わざるを得なかった相良義陽にはかなりの葛藤があったようで、義陽はわざと負けるような布陣を敷いていたという。
座して死を待つように義陽が陣地で討たれたことを聞いた宗運は、その首を見て涙したという。(響野原の戦い)
卓越した外交手腕
相良家には勝利したが、もはや島津家の阿蘇家への侵攻を止めることは困難だと判断した宗運は、天正10年(1582年)島津家に和睦を申し入れる。
しかし、宗運は和睦の条件の約束を何一つ実行に移さなかった。
この和睦は時間稼ぎが目的で、宗運はわざと和睦条件を間違えたり、交渉中にもかかわらず和睦成立の祝いの品を送るなど意図的に時間稼ぎをする。
畿内での織田信長の活躍に「いずれ天下人が九州を平定に来るからそれまで持ちこたえるべし」と戦国時代の終焉を察した計略だった。
そして「島津家には決して仕掛けずに守りに徹しろ」と言い残し、天正11年(1583年)7月5日に亡くなる。享年75歳であったとされている。
毒殺説
これには毒殺説もあり、嫡男、親英の妻が「夫もいつか殺されるのでは」と非情な宗運を恐れて、娘に命じて毒をもったという説もある。
娘に命じた理由は、油断が生じやすいという利点と、親英の妻も父を宗運に殺されており、その際に「決して宗運に復讐を企てない」と親英同様に誓約させられていたからだ。
おわりに
その後、甲斐宗運の読み通り、天正14年(1586年)豊臣秀吉の軍勢が九州を平定しにやって来る。
しかし、甲斐家を継いだ甲斐親英は宗運の「守りに徹しろ」という遺言を守らず、宗運が死んだ2年後の天正13年(1585年)島津家に攻め込んでしまい、島津家に攻められた阿蘇家は滅亡。親英も自害し甲斐家も滅亡してしまった。
甲斐家の滅亡は親英だけのせいではなく、他の兄弟全員を非情に粛清してしまった宗運にも大きな要因はあるといえる。
全ての能力に卓越していた宗運であったが、非情に徹しすぎたことと、家系繁栄を視野にいれた長い時間軸での戦略は持ち合わせていなかったのかもしれない。
秀吉の九州平定の1年前であった。
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