長束正家とは
長束正家(なつかまさいえ)は豊臣秀吉から高い算術能力を買われ、ヘッドハンティングをされて五奉行にまで出世した武将である。
元々は丹羽長秀に仕えていたが、秀吉に仕えた後は裏方業務を任され「天下無双の算術」と称されて天下統一を支えた。
大軍勢を影で支えて大名となった長束正家は、西軍として関ヶ原に参陣するも動けずに捕らえられて切腹させられる。
石田三成と共に秀吉政権を支えた算術の天才武将、長束正家について追っていく。
丹羽家時代
長束正家(ながつかまさいえ)は永禄5年(1562年)近江国栗太郡長束村(現在の滋賀県)の水口盛里の長男として生まれる
現在の愛知県稲沢市長束町で生まれたという説もある。
正家は織田信長の重臣・丹羽長秀に仕え、主に勘定方を任されていたようで、戦の時の兵糧や武器・弾薬の運搬など後方支援とそれを帳簿につける仕事(勘定方)を任されていた。
本能寺の変の後に主君・丹羽長秀は豊臣秀吉につき、123万石の大大名にまでなっている。
長秀が亡くなった後に跡を継いだ丹羽長重はまだ15歳と若く、123万石の大名となった丹羽家を恐れた秀吉は長重に軍律違反があったと難癖をつけ、しかも不正経理があったとして領国の大半と有能な家臣を召し上げる。
なんと123万石から15万石にまで減封されているのだ。
しかし、正家は帳簿を秀吉に差し出して不正経理が無いことを証明して誤解を解いた。
ある意味難癖なのだから、直訴すると自分の命が危ない状態になることも覚悟の上で、自分の仕事の正当性を主張したのだ。
この働きを高く評価した秀吉は正家を家臣として豊臣家に迎え入れた。
迎え入れたというよりは強引に家臣にしたという感じである。
秀吉の下で
高い算術能力を買われた正家は豊臣の直参の家臣となり、財政面を一手に担い太閤検地や豊臣家の蔵入地(大名もしくは政権、幕府の直轄地)の管理を任せられた。
天正14年(1586年)の九州平定と天正18年(1590年)小田原征伐など、大軍勢の戦では兵糧奉行として輸送を受け持ち、大軍勢の兵糧確保と20万石の兵糧輸送を石田三成らと務める。
小田原征伐の時には小田原周辺の3万石の米を買い占めて、北条氏を兵糧攻めで苦しめている。
この当時の秀吉の軍勢は10万以上の軍勢がほとんどで、その兵たちの兵糧を確保して輸送するのは大変であり、敵は兵糧を絶とうと命がけで阻止してくるのだから大変な役回りである。
戦には必ず必要な兵糧だが、消費量も大軍だとすごい量となる。小田原征伐ではなんと20万石も必要であったというのだから大変な仕事である。
正家はこの仕事を石田三成と共にしていたという。朝鮮出兵でも三成と共に兵糧奉行を務めて肥前の名護屋で後方支援をしていた。
この時は日本国内で米を集めて船で朝鮮に輸送、そして朝鮮の港から最前線の兵に届ける段取りをつけるという仕事だった。
また、全国に散らばる豊臣家の200万石にも渡る蔵入地を管理し、遠隔地から船で大阪に米を集めて売ることで莫大な資金を作り出し、豊臣家を財政面で支えた。
内政面でも力を発揮して、文禄3年(1594年)には荒廃した農村の再建や、逃亡した農民の環住策を指示するなど算術以外での才も見せている。
この頃には伏見城の造営にも携わっており、これらの功績が認められて文禄4年(1595年)、近江水口城5万石を秀吉から与えられ、慶長2年(1597年)には12万石に加増されて従四位下侍従に叙任している。
関ヶ原の戦い
秀吉の死後は石田三成につき、打倒家康の謀議に参加して会津征伐の中止を嘆願するなどの行動をとっている。
慶長5年(1600年)会津征伐に向かう家康の暗殺を、正家の息子と家臣が画策しているという噂までたち、家康は警戒しながら会津に向かっている。
その後、石田三成らと共に毛利輝元を総大将にして挙兵し、伏見城攻めと安濃津城の戦いで功を挙げている。
関ヶ原の戦いでは吉川広家と共に南宮山に布陣していたが、本戦では東軍に寝返った吉川広家の妨害のために動けず、西軍が壊滅すると撤退をした。
そして居城の水口城への帰り道で島津義弘の部隊と出会う。その時には「島津の者はこの辺りの地理に不慣れだろうから」と自分の家臣を案内役につけている。
これが功を奏したのか島津の部隊は無事薩摩へ帰ることが出来たという。
しかし正家らは水口城を目の前にして山岡道阿弥の軍勢から攻撃を受け、正家の弟・玄春が捕まって処刑されてしまった。
正家はなんとか無事に入城するものの東軍の池田軍に城を包囲される。そして所領安堵を約束されて降伏したが欺かれ、城から出たところを捕縛されてしまう。
捕らえられた正家は弟・直吉と共に、自分の家臣の奥村左馬助の介錯で切腹した。
この時、正家は池田の武将に「奥村左馬助は介錯後に殉死するだろうから、必ず止めてくれ」と頼んでいる。
武功ではなく算術(財政)という才で大名にまで昇り詰めた心優しい武将は、39歳で生涯を終えた。
首は京都三条橋に晒されて、財産は水口城に入城した池田長吉(池田恒興の三男)に奪われ、さらには水口城では略奪の限りが尽くされ、正家の正妻であった栄子も酷く凌辱されて無残な死を遂げた。
栄子が本多忠勝の妹であることをすぐ後で知った池田輝政(池田恒興の次男)は、あわてて隠蔽工作を行ったという。
おわりに
長束正家は豊臣政権の五奉行の中では最後に直臣となっているにもかかわらず、異例の早さで大出世している。
五奉行と言えば「石田三成」があまりにも有名で、同じ後方支援をしていた長束正家はあまり知られてはいない。
しかし、石田三成は豊臣恩顧の大名たちに恨まれて命を狙われ、一方同じ仕事をしていた長束正家は彼らに恨まれてはいない。
秀吉は、「算術の才の他に人のために動き、人のために家臣を差し出す」正家のそんな器量に惚れて自分の家臣にしたのではないだろうか。
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