可児才蔵とは
戦国時代の最強武将を考えた時、思い浮かぶ有名武将は多いと思いますが、武力に極めて秀でていながらあまり知られていないマイナー武将が、可児吉長(かによしなが)通称、可児才蔵(かにさいぞう)です。
現代社会でも「部下から慕われる上司にしたい人物」として人気になっていたと思われる、可児才蔵の人物像を紹介していきます。
有名武将の下でたらい回しの経験
幼少期を美濃国の興願寺で育ち、美濃国の戦国大名だった斎藤龍興(さいとうたつおき)に仕えていましたが、織田信長に対抗し合戦を続けていくうちに斎藤家は滅ぼされ、織田信長の配下である家臣の下に仕えます。
柴田勝家・明智光秀・前田利家・織田信孝・森長可・豊臣秀次・佐々成政・福島正則など、そうそうたる武将の下をたらい回しにされていたのです。
それは、可児才蔵の才能や能力に問題があったからではありません。無能な上司には楯突き、部下には優しく、優れた部下には褒美を与えていたようです。
今の時代で言えば、自分の槍の腕前を少しでも高く評価してくれる会社に転職する感じだと思われます。
笹の才蔵伝説の始まり
織田信長が甲斐の武田氏を滅ぼすために甲州征伐に向かった時、才蔵は森長可の下で戦いに参加。一般的に1人の兵卒が一度の戦で首を取れるのは3つ程度と言われている中、才蔵は16もの首級をあげました。
これを持ち運ぶのは不可能で、才蔵は大将である森長可に報告しても信じてもらえないことを予測して、自分が討ち落とした者の口元に笹を咥えさたのです。
敵を討ち落としただけでなく、笹を咥えさせたことの意味もありました。笹はお酒と同じ意味合いを持っており、敵とはいえ、討ち落とした者への礼儀として笹を咥えさせていたと言われています。
そうすることにより、戦場で討った敵の首を1人1人切り落とす手間も必要なく、効率的に戦をおこなっていたと言えます。また、戦いの最中で笹の葉を口に入れていく余裕があったこともエピソードとして残されています。
この行動から、可児才蔵は 笹の才蔵 と呼ばれるようになったのです。
主君・大将にも妥協せず
織田信長亡き後、徳川家康と豊臣秀吉の争いが勃発した小牧長久手の戦いにおいて、豊臣側に仕えていた可児才蔵ですが、徳川家康の居城である岡崎城の奇襲に反対し、当時の大将、豊臣秀次に作戦の立て直しを意見したものの聞き入れられず、結果、豊臣軍は完敗となり、豊臣秀次は退却します。
その道中で才蔵は秀次と遭遇し、馬を貸してくれと言われますが、「雨の日には傘が必要なのと同じで、今の私には馬が必要だから貸せません」と主君である秀次に言い放ち、立ち去りました。
主従関係が現代よりはるかに重んじられていたこの時代において、なかなか言えることではありません。武人として独立した感性を持っていた特異な人物だったことがこのエピソードから伺えます。
そしてそれを周りに認めさせるほどの実力と器量がありました。
槍の才蔵
可児才蔵は幼少期、宝蔵院流槍術を創始した宝蔵院胤栄(ほうぞういんいんえい)から槍を教えられていました。
可児才蔵は努力するあまりに逆に槍が使えなくなってしまい、胤栄に相談したところ、「無心になっても槍を使えるようになるまで修業しなさい」と言われ、無我夢中になって槍の修行をしたことで何の迷いもなく槍を自由自在に扱えるようになりました。
宝蔵院流槍術の特徴は、十文字鎌槍で槍を突くだけでなく、巻き返し・切り落とし・打ち落としなど、攻めるだけでなく守りにも優れた槍術でした。
才蔵はその優れた槍術で実戦でも大いに力を発揮し、槍の才蔵 とも呼ばれていました。
戦国クライマックス 関ヶ原の合戦
関ヶ原の合戦は、東西合わせて16万人とも20万人とも言われる兵士が動員された戦国時代最大の合戦です。
関ケ原合戦の重要なポイントにもなった前哨戦の岐阜城の戦いにおいて、才蔵は17とも20とも言われる首を討ち取りました。そのことを知った徳川家康から才蔵は大いに褒められ、さらに名が高まります。
関ヶ原の合戦は6時間で終わったと伝えられおり、短い期間で才蔵は大きな功績をあげました。
ここにもエピソードがあり、実は才蔵は謹慎中で合戦には呼ばれていなかったのですが、謹慎中でありながらトップレベルの功績を残していたのです。
才蔵は自分の部下にも優しく、武勇に秀でた者がいれば惜しみなく自分の禄を分け与えました。
当時から才蔵は人気も高く、付き従っていきたいと思う人は多かったようです。
可児才蔵の最後
可児才蔵は、愛宕権現(あたごごんげん)の縁日に死ぬと周囲に公言していました。(※愛宕権現とは愛宕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神号であり、才蔵は若い頃から愛宕権現を信仰していた)
1613年6月24日、公言通り可児才蔵は、身を清めて甲冑を身につけて床机に腰かけた状態で自然死していたと伝えられています。
ここまでかっこよく生きた戦国武将はなかなかいないのではないでしょうか。
亡くなった後も、人々が才蔵の墓の前を通るときは下馬して礼を送ったと伝えられています。
最後に
戦国武将としてはマイナーな部類の武将ですが、上司の間違いを正し、部下を大切にする可児才蔵が生きていたら、現代でも大活躍していたかもしれませんね。
可児才蔵の人間的に決してブレない生き方は、情報が多すぎる現代人にとって良きお手本となりそうです。
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