のぼうの城
和田竜さんの歴史小説「のぼうの城」が2012年に映画化されて大ヒット。
その主人公・成田長親(なりたながちか)は、野村萬斎さんが演じ、一気に有名になった。
成田長親は「でくのぼう」を略して「のぼう様」と後世で呼ばれるが、その愚鈍な男が石田三成率いる2万を超える豊臣軍を相手に徹底抗戦し、小田原城落城後も持ちこたえた。
忍城には甲斐姫という武勇に優れた姫様がおり、敵将を討ち取り、籠城していた城兵は奮い立ったという。
甲斐姫の武勇伝を聞いた豊臣秀吉は、甲斐姫を大変気に入り「側室」にした。
たった500の兵と領民の3,000で2万を超える豊臣軍の「水攻め」に耐え、「われら、餓死するより戦死を望む者」と言い放って抵抗した男・成田長親について解説する。
のぼう様
成田長親は、天文15年(1546年)忍城主・成田氏長に仕える成田泰季の嫡男として生まれた。
成田氏の居城・忍城(おしじょう)は、現在の埼玉県行田市付近で、成田氏は北条氏(後北条氏)に属していた。
元々成田氏は藤原氏の流れを組む名門の出で、上杉謙信が小田原城を攻めた時に行われた関東管領の就任式で下馬しなかったために上杉謙信と険悪になり北条氏に属して、最盛期には約30万石を領していた。
長親は城主・成田氏長の従兄弟で、農作業が好きで領民の農作業を手伝ったりした。しかし長親が田植えを手伝ったところは村人が3日かけて植え直さなければならないような不器用な男だった。
表情に乏しく背の高い大男で、のそのそ歩き、運動も苦手で、馬にさえ乗れなかったという。
しかし、本人はそのことを全く気にせず、民百姓とも分け隔てなく接する度量の広い人物であった。
このため身分の低い者たちから慕われて、百姓たちの中には「長親のためなら命を賭けることも厭わない」と言う者も多かったという。
小田原征伐
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐が始まり、城主・成田氏長は北条氏直の要請により小田原城に主力部隊を率いて入り、籠城戦に備えた。
そのため成田氏の居城・忍城は城代として長親の父・泰季が指揮することになったが、残った兵はわずか500ほどであった。
父・泰季はこの当時は老齢で病に伏せっていたとされ、忍城が豊臣軍に包囲された前後に亡くなっていた。(戦死という説もある)
秀吉は石田三成を忍城攻めの総大将を命じて、大谷吉継・長束正家・佐竹義宣・宇都宮国綱・結城晴朝・多賀谷重経・水谷勝俊・佐野房綱ら、2万を超える軍勢で忍城を攻めた。
父・泰季は亡くなる前に長親を呼び「我が死んだらお前が本丸に入って指揮をとれ」と言い残した。
長親は特に武勇に優れていた訳でもなく政治力・統率力も実績が無かったが、忍城の城代として指揮をとることになった。
水攻め
長親は武勇で知られた当主・氏長の娘・甲斐姫や、家老の正木丹波守利英、柴崎和泉守敦英、酒巻靱負詮稠らと共に籠城。
領民たちも城に引き入れて約3,000で豊臣軍の大軍と対峙した。
忍城は湿地帯を利用した沼の中に浮かぶ水の城だった。
洪水の多い一帯にできた湖とその中の島々を要塞化した城郭で、本丸・二の丸・三の丸・諏訪曲輪の主要部分は独立した島であり、これらを橋で連結していた。
かつて北条氏康や上杉謙信の攻撃にも耐えた堅固な城であった。
緒戦は地の利を生かした成田軍が敵を撹乱。大軍を率いた三成は諸将をうまく使えず苦戦を強いられた。
甲斐姫は自ら鎧兜を身に付け、成田家に伝わる名刀「浪切」と、実母の形見の短刀を持って出陣し、三宅高繁を討ち取るなど大活躍。
19歳の甲斐姫の勇姿に、城兵たちは奮い立ったという。
降伏に応じない忍城に対し、三成は秀吉の命で「水攻め」を行い、総延長28kmにも及ぶ広大な堤防を築き、忍城を水の底に沈めようとした。
金に糸目をつけずに人夫を集め昼夜にわたって工事を行い、わずか1週間(5日とも)で28kmの堤防が完成した。
現地の地形をよく知る三成は水攻めにあまり賛成ではなかったが、秀吉は三成に水攻めの方法を事細かく指示する書状を送っている。
忍城は秀吉が備中高松城を水攻めにした4倍以上の長さで、戦国時代の合戦の中では最大規模であった。
利根川と荒川の水をなんとか引き入れたが、大雨により堤防が決壊して豊臣軍に多くの犠牲者が出てしまった。
「領民に慕われていた長親を助けるために領民が堤防を決壊させた」「手抜き工事だった」「長親らの計略で水に慣れた者を深夜に城の外に出し、郭外の堤を断ち切った」などの説がある。
三成はこの「水攻め」の失敗により、戦下手とされてしまう。
降伏
忍城で籠城を続ける成田軍であったが、北条氏政・氏直親子が降伏して小田原城は落城。
忍城の当主・氏長は長親に降伏の使者を遣わしたが、長親は「われら、餓死するより戦死を望む者」と言い放ち抵抗を続けた。
最終的には当主・氏長が忍城に戻って降伏を説得し、忍城はついに開城した。
小田原城が降伏してからも籠城を続けた城は忍城だけであったという。
籠城した成田軍の兵士たちは、罪に問われず財産の没収もなかった。
その後、氏長・甲斐姫・長親らは蒲生氏郷に預けられ、岩代福井城に移った。
この時、蒲生氏郷から預かられた家臣の浜田将監と弟・浜田十左衛門が謀反を起こしたが、甲斐姫は浜田兄弟を討伐したという。
この武勇伝を聞いた秀吉は甲斐姫を気に入り、側室にした。
そのためもあってか氏長は天正19年(1591年)下野国烏山城2万石を与えられて、再び大名となっている。
長親は氏長と共に烏山にいたが、氏長に「忍城の戦いの際に秀吉方との内通していた」と疑われて不和となり、氏長のもとを出奔した。(内通は人間違えで、後に氏長は長親に謝罪の書状を送ったが長親は戻らなかった)
その後、長親は出家して尾張国の大須に移り住み、慶長17年(1613年)12月4日に死去した。
享年67であった。
おわりに
映画「のぼうの城」では甲斐姫が成田長親に恋心があったように描かれていたがあれは創作であり、成田長親はこの時45歳で妻子がおり、嫡男は20歳を超えた武将であった。
「でくのぼう」を略して「のぼう様」と呼ばれたという話も、小説「のぼうの城」での仮想の話である。
成田長親らが籠城した忍城が水攻めに耐えて豊臣軍2万との激戦に耐えたことは事実であり、領民が成田一族を慕っていたことも事実である。
映画のぼうの城を見た感想では甲斐姫とのぼうの恋が降伏しないで水攻めされたとなっていたが、真実は違っていたのですね
あんなに頑張ったのぼうが当主に裏切りを指摘されてしまうなんてこの記事を読んで良かったです。
映画を見たら、真実は違うんですね、でも本当のことが分かって良かったです。